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第二日:雪と湯気

Ⅰ. 時計を外す

朝。いつもの習慣で手首に目をやってから、自分がカルティエのタンクを外していることに気づく。 分厚い掛け布団の中で、冷え切った外気と、障子を透過してくる曖昧な光だけを感じていた。

東京にいた頃の朝は、闘いへの準備だった。 ホウェイプロテインを流し込み、BCAAとクレアチンで肉体を強制的に覚醒させる。 「EYのマネージャー職」という次のディールに向けたSPIのシミュレーションが、脳のバックグラウンドで常に走っていた。 しかし今、それらのノイズは、分厚い雪の壁の向こう側で完全に凍りついている。

冷たい板張りの廊下を歩く。足裏から伝わる確かな冷たさだけが、今の私にとって唯一の現実だ。

Ⅱ. 湯気と輪郭

誰の気配もない大浴場。 戸を開けると、微かな硫黄の匂いと、圧倒的な湯気が視界を奪った。

ゆっくりと湯に沈み込む。 熱が皮膚の境界を越えて、内臓へと浸透していく感覚。 湯気の向こうには、墨絵のように黒々とした山脈と、音もなく降り積もる雪だけがある。 鳥の鳴き声すらしない。完全な、そして暴力的なまでの静寂。

自分が何者であったか。 どのようなロジックで世界を切り刻んできたか。 そんなものは、この湯気の中では何の意味も持たない。

Ⅲ. 剥がれ落ちる

湯から上がり、火照った身体に冷たい浴衣を纏う。 窓際の藤椅子に深く腰掛け、ただ白湯をすする。

スマートフォンは、鞄の奥底で完全に沈黙している。 非接触のICキーで守られた、無機質なタワーマンションの部屋には、もう戻らなくてもいいのではないか。 そんな錯覚すら覚える。

ここは、名前も、肩書きも、明日への焦燥も、すべてを洗い流してくれる場所。 私はただ、ガラス窓を滑り落ちる水滴の軌跡を、何時間も追い続けていた。