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一首の歌
群馬県みなかみ町、標高約八百メートルの山峡に、法師温泉 長寿館という一軒宿がある。川端康成はこの宿を訪れ、歌を一首残した。
山祈る太古の民の寂心 今日新にす法師湯にして
日本秘湯を守る会の公式の記載に、この歌が伝わる。いつ訪れたのか、どの部屋に泊まったのか、といった細部は、確かな記録として手元にない。分からないことは、分からないまま置く。分かっているのは、川端がこの湯に入り、太古の民の寂心を「今日新にす」と詠んだ、その一点である。
歌は宿を褒めていない。景色にも料理にも触れず、湯と、湯を使ってきた太古の民の心だけを詠んでいる。三十一文字の使い道として、これはかなり思い切った配分である。
来訪の記録は川端に限らない。与謝野晶子は夫とともにこの宿を訪れ、若山牧水も来ていると伝わる。晶子も牧水も歌人である。歌の宿、と呼びたくなるところだが、宿の側にその種の看板はない。明治に建てられた本館はいまも客室として使われ、本館・法師乃湯・別館の三棟は二〇〇六年、国の登録有形文化財に登録された。文人たちが歩いた建物が、記念館としてではなく、宿として現役のまま立っている。ガラス越しに見る建築と、泊まれる建築とでは、事実としての重さが違う。
湯は底から湧く
法師乃湯には湯口がない。湯は湯船の底、敷き詰められた玉石の隙間から湧く。足元湧出と呼ばれる形式で、源泉の真上に湯屋が建っていることを意味する。湧く場所は動かせない。だから建物のほうが湯に従った。明治の木造が湯の真上にあるのは、この順序の帰結である。
浴場は混浴が基本で、女性専用の時間は二〇時から二二時までと定められている。時間で区切るこの運用も含めて、湯治場の作法が現在まで続いている。
歌の「太古の民」は、この湯では修辞にとどまらない。底から湧く湯に足を着けるとき、入る者は配管も湯口も経由せず、湧出のその場所に直接触れる。太古の民と同じ触れ方である。川端がこの語を選んだ理由は歌の外に残っていないが、湯の形式と歌の語彙は、無関係には見えない。
一日四便の先
東京からの経路を書いておく。東京駅から上越新幹線で上毛高原駅まで約七十〜八十分。そこから猿ヶ京を経由する町営バスで約五十〜七十分、法師バス停で降りる。バスは午前二便、午後二便の一日四便しかない。乗り遅れれば猿ヶ京からタクシーになる。バス停の先に集落はなく、谷の底に宿が一軒あるだけである。
新幹線は一時間強で関東平野を抜け、バスは一時間かけて山道を登る。速度が段階的に落ち、最後は徒歩数分で玄関に着く。この減速の構造は、鉄道と道路が整備された現在ですらこうなのだから、文人たちの時代の道程は、これより短かったはずがない。彼らはこの距離を、承知の上で来ている。
一日四便というのは、文人の時代の話ではない。二〇二六年現在の時刻表である。百年前の不便が観光資源として演出されているのではなく、いまもただ、不便なのである。
本館の部屋はバス・トイレなしが中心で、食事は夕朝とも「当館おまかせ」。夕食は一八時から二一時、朝食は七時半から九時と時間の枠だけが決まっていて、献立を客が選ぶ仕組みは最初からない。チェックインは一五時から一九時半。枠は宿と山が決め、客が決めるのは、行くか行かないかだけである。
つまりこの宿では、交通を選べず、設備を選べず、献立を選べない。選択肢を一つずつ手放しながら谷へ降りていく構造が、現在も維持されている。文人たちがなぜ交通の不便な山の一軒宿へ足を運んだのか、本人たちの説明はほとんど残っていない。残っているのは、彼らが引き受けたはずの条件——湧く場所の真上の建物、選べない膳、山側が決める時刻——が、およそ百年を挟んでほぼそのまま確認できる、という事実のほうである。書くことを仕事にした人間には、選ばなくてよい場所が必要だった。そう推測することはできるが、推測は推測として、ここまでにしておく。
湯は保存を必要としない
文化財の登録は二〇〇六年である。建物は保存の対象になった。湯はならなかった。保存を必要とせず、いまも底から湧き続けているからである。登録の名義は建物に与えられたが、建物がそこに建った理由は湯である。文化財の中心に、文化財ではないものが湧いている。
この宿の一晩は、№004「以上、で締まらない一日」に記録がある。一日四便のバスに旅程を決めてもらった一人の記録で、文人の話はほとんど出てこない。それでよい。歌は一首、湯の上に残っている。読んでから行っても、行ってから読んでも、湯の湧き方は変わらない。
