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教師として来た
明治三十二年四月、島崎藤村は小諸へ来た。
観光でも、療養でもない。就職である。
小諸義塾という学校があり、その塾長が木村熊二といった。藤村の恩師にあたる。招かれて、国語と英語の教師として赴任した。
このとき藤村は二十六歳。すでに詩集『若菜集』を出しており、詩人として知られていた。
その詩人が、地方の学校で教壇に立った。
小諸市の公式の記載によれば、滞在は明治三十二年四月から明治三十八年三月まで。
六年である。
六年のあいだに
小諸にいた六年で、藤村は書き方を変えた。
明治三十三年、長女が生まれた頃から、「物を見る稽古」のために書き記し始めたものがある。
のちの『千曲川のスケッチ』である。
稽古、という言い方が公式の記載に残っている。作品を作るためではなく、見る訓練のために書いた。
同じ六年のうちに、長編『破戒』の執筆に取りかかっている。
短編もいくつか書いた。「旅情」を明星の創刊号に発表し、「旧主人」「藁草履」「爺」「老嬢」「水彩画家」「椰子の葉陰」を書いている。
詩集を出した人が、散文を書くようになった。
その転換が、教師をしていた六年のあいだに起きている。
詩人が小説家になる六年間が、教師の職とともにあった。
三月に辞め、四月に発つ
明治三十八年三月、藤村は小諸義塾を退職した。
四月二十九日に上京している。
退職から上京まで、四十日ほどある。
書きかけの原稿を持って発った、と記録にある。
翌明治三十九年、『破戒』が自費出版された。
自費である。
千曲川と、城の跡
小諸は、千曲川の左岸にある。
町の南側に小諸城の跡があり、いまは懐古園と呼ばれている。
城が谷側に低く築かれているのが小諸城の特徴で、城下町より低い位置にある。穴城と呼ばれる形式だという。
そこからさらに下ると、千曲川に出る。
藤村が「物を見る稽古」をした対象の一部は、この川と、この谷である。
いま泊まれる宿
懐古園から千曲川へ続く森の中に、中棚荘という宿がある。全二十七室。
創業は明治三十一年。藤村が小諸へ来る前年にあたる。
一休.comの施設情報には、藤村がたびたび逗留し『千曲川のスケッチ』を著した、との記載がある。ただし逗留の時期や部屋についての具体は、宿の公式サイトにも小諸市の資料にも見あたらない。
分からないことは、分からないまま置く。
事実を書いておく。
客室は大正館と平成館に分かれている。二十七室。
湯は弱アルカリ性で、露天風呂が二つ、大浴場が二つある。源泉かけ流しは露天風呂のみで、大浴場は源泉百パーセントだが加温している。
「初恋りんご風呂」というものがあり、十月から五月にかけて登場する。夏には無い。
小諸駅からは徒歩で二十分から三十分。タクシーで約千円。送迎については記載がない。
歩けない距離ではないが、荷物があると長い。
チェックインは十四時から十八時、チェックアウトは十一時。
一人泊の可否は公表されていない。予約前に確認したほうがいい。
六年という長さ
六年を短いと見るか、長いと見るか。
藤村は二十六で来て、三十二で発った。
その六年で、詩を書く人が、小説を書く人になった。
書き方が変わるのに、六年かかったとも言える。六年で足りたとも言える。
どちらが正しいかは、書いていない人間には分からない。
分かるのは、その六年が小諸という土地で過ぎたということだけである。
千曲川は、いまも同じところを流れている。
