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RECORD № 004

以上、で締まらない一日

成果の物差しを失った人間は、何を「大漁」と呼べばいいのか

長く数字で組織を率いて、早期退職した。成果の物差しを失った時間の使い方が、まだ身体に馴染まない。妻との会話に「報告」の口調が残っていることに、本人だけが気づいていない。

克彦という語り手について →

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本日の予定

六時十分に目が覚める。三十二年、六時十分に起きて八時三分の急行に乗ってきた身体は、通う先がなくなって三ヶ月経っても、起床時刻の変更をまだ承認していない。布団の中で、私は本日の予定を確認する。可燃ゴミ、八時三〇分まで。以上。

以上、で終わってしまうのが、目下の懸案だった。

現役の頃、手帳は十五分刻みだった。会議、決裁、面談。埋まっていない枠を見つけると、埋めた。いまは逆である。ゴミ出しという本日の主要案件を八時三一分に完了すると、十七時の夕刊まで、手帳は白い。

妻には妻の時刻表がある。七時に起きて洗濯機を回し、九時に掃除機をかけ、十時半に体操教室へ出て、昼は誰かと長い電話で笑う。今週は台所に梅の匂いが立っている。青い実のヘタを竹串で外す作業を手伝おうとしたら、力の入れ方が違うと言われ、三粒で任を解かれた。妻の一日は満員の各駅停車で、私の乗る隙間がない。

月に二度、ハローワークには顔を出している。六十一歳、管理職経験三十二年、という条件で検索機が出してくる着地見込みを眺め、番号札の順が来る前に帰る日もある。相談員の男は私より二十は若く、丁寧である。丁寧にされるたび、報告を受ける側だった年月が、そのぶんだけ遠くなる。

午後の白い枠に、先週、私は「自由時間」と記入してみた。名称を与えれば予定になるという判断だったが、ならなかった。名前だけの部署に人が来ないのと同じである。そして十七時、妻が米を研ぐ音が聞こえはじめると、私は読み終えた新聞をもう一度めくる。あの時間帯の、あの、家の中のどこに立てばいいのか分からない感じについては、まだ報告書の書式が見つからない。

群馬の山の宿を知ったのは、妻の一言からだった。旅行の欄を眺めていた私に、平日なら空いてるんでしょう、と言っただけだが。予約の画面を前に二晩、私は決裁を保留した。三日目の朝、確定の釦を押した。決め手は、宿までのバスが一日に四便しかない、という一行である。行程表を作る手が、久しぶりに乗り気だった。

出発の前夜、私は妻に報告した。

「八日から一泊で群馬へ行く。上越新幹線で上毛高原、以降は町営バスとなる。夕食朝食は宿から支給される。帰着は明日の一八時前後を見込む」

「はい。気をつけて」

妻は梅の瓶から顔を上げなかった。支給、はないだろうと自分でも思ったが、訂正の機会は失われた。

一三時一〇分発

行程表は一枚で完成した。作成には万全を期したのだが、バスは午前に二便、午後に二便しかなく、検討の余地が最初からなかったのである。一三時一〇分発に乗ると決めれば、逆算で新幹線が決まり、東京駅を出る時刻が決まり、家を出る時刻が決まる。三十二年、時刻は私が決める側だった。会議の招集も、締切の設定も。ここでは山の時刻表が先にあり、私の側が従う。従ってみると、存外、楽であった。

三十分前行動の習性で、東京駅には早く着きすぎた。一本前の新幹線が目の前で扉を開けていたが、指定席の変更手続きが惜しく、見送った。乗れる列車を見送って規則を守る男を、ホームの若い駅員は気にも留めなかった。

上越新幹線は七十数分で上毛高原に着く。高崎を過ぎると車内は急に空き、トンネルの合間の緑が濃くなった。ホームに降りると、雨だった。梅雨入りは先週、発表されている。東京の雨より音が近い。駅前に高い建物がなく、山の稜線が雨に烟って正面にある。バスの発車まで二十七分。屋根の下のベンチで、私は時刻表ではなく雨を見て過ごした。予定より早く着いた時間の使途は、長年、次の予定の準備と決まっていた。準備する予定が、もうない。

バスは小型で、客は私を入れて五人だった。運転手の手順を、つい見る。ミラーの確認、扉の開閉、乗客が座りきるまでの間の取り方。無駄がない。三国街道を登り、赤谷湖が見えた。雨脚が湖面を叩き、水の色が灰と緑のあいだで揺れている。猿ヶ京の温泉街で二人降り、道は細くなった。濡れた杉の幹が、窓のすぐ外を流れていく。

画像はイメージです

乗客の中に、勤め人の匂いのする男が一人いた。終点まで、男は一度も腕時計を見なかった。私は上毛高原からのあいだに三度見た。

一四時一八分、法師、終点。降りて振り返ると、道はその先へも延びているのに、その先に集落はないのだという。標高八百メートルの谷の底で、雨と川が同じ方向へ流れていた。

四十二分の空白

宿は目の前にあった。明治に建った木造がそのまま現役で使われ、国の登録有形文化財だという。だが、チェックインは一五時からである。バスは一四時一八分に着く。差し引き四十二分。現役の頃の私なら、この端数は行程設計の不備として、担当者に説明を求めるところだ。

ところが今回、担当者は山の時刻表である。責任の所在が私にない空白というものを、私は玄関の軒下に立って、久しぶりに味わった。屋根板を打つ雨が軒先で糸になり、砂利の上で鈍い音に変わる。左の膝が、雨の日の癖で小さく鳴った。四十二分は、手帳の白い午後よりずっと短かった。

帳場の手続きは簡潔だった。仲居の動線を、つい目で追う。廊下の曲がりで先に立ち、客の歩幅に合わせて速度を落とす。急いでいないのに、遅くない。ああいう歩き方は、研修で身につくものではない。

部屋は本館の八畳で、風呂も便所も付いていない。設備の仕様として書けば減点項目だが、ランプの並ぶ廊下を歩いて部屋に着くまでのあいだに、減点する気は失せていた。畳に座ると、建物全体が雨を受けている音がする。その下を、川の音が休みなく通っていた。浴衣に着替え、腕時計を外して座卓に置いた。置いてから、置く必要があったのかどうか、しばらく考えた。

決裁事項なし

法師乃湯は、廊下を渡った先の湯屋にあった。天井の高い木組みの下、木枠で仕切られた湯船が並び、弱い光の中で湯気が層になって動いている。入口の掲示に、ここは混浴で、二〇時から二二時までが女性専用時間とあった。規則が明確なのはよい。

湯は、底から来た。足の裏に触れる玉石の隙間から、気泡がひとつずつ立ち上がり、脛に触れて消える。どこかから引いてきた湯ではなく、湧いている場所の真上に、明治の人間は建物を建てたのである。段取りとして、これ以上のものはない。湯屋に時計はなく、窓の外は雨で、光の角度も読めなかった。何分浸かったのか、私はいまも報告できない。

画像はイメージです

文人が幾人もこの湯へ来ているというのは、行程表を作るときに読んだ。文豪の来た宿、という話には興味が薄い。ただ、あの人たちも、湧く場所の真上に座ったのだ、ということだけは、妙に確かな事実として腹に残った。

夕食は一八時、膳で来た。品書きはなく、献立は当館おまかせ、と決まっている。選べない、という条件を予約の画面で読んだときは、減点かと思った。膳を前にすると、違った。何も決めなくてよい食事を、私は思い出せる限り、していない。会食は店を決め、席次を決め、切り出す順番を決めてから始まるものだった。私は出された順に食い、漬物だけを、いつもの癖で最後に残した。

本日の進捗。移動は定刻。湯は床から湧いていた。飯は決めなくてよかった——頭の中で妻への報告を組み立ててから、報告の受け手が隣にいないことに気づいた。窓の外で、雨が少し太くなった。

夜、二一時に布団へ入った。予定があるから寝るのではなく、他にすることがないから寝るのでもなかった。雨と川の音を天井の上に載せたまま、いつの間にか眠っていて、以上、と締める間もなかった。

帰着報告

朝食も膳で、品書きはなかった。帰りの便は昨日のうちに決めてある。決めたとおりの時刻に玄関を出て、決めたとおりのバスに乗った。それだけのことが、ここでは一日の骨格として十分に機能する。四本しかない、ということは、四本もある、ということでもある——と行程表の余白に書きかけて、格言めいたのでやめた。

猿ヶ京で客が増え、上毛高原で新幹線に乗り換えると、速度が戻った。窓の雨は、また聞こえなくなった。

一七時四〇分、帰着。玄関で私は報告した。

「ただいま帰った。行程に遅延なし。湯は床から湧いていた。飯は、こちらで決めなくてよい仕組みだった。それから——」

それから、の続きが出てこなかった。軒下の四十二分のことでもなく、何分だったか分からない湯のことでもなく、そのどれでもある何かが、報告の項目にならないまま残った。

「おかえりなさい。お風呂、沸いてます」

妻は台所へ戻っていった。梅の匂いが、二日分濃くなっていた。

夕刊を読み終えると、十七時台の、あの家の中のどこに立てばいいのか分からない時間が、今日も来た。来たが、私は手帳を開き、明日の欄に書いた。可燃ゴミ、八時三〇分。その下の白い枠に、自由時間、と書きかけて、ペンを止めた。名称は保留とする。白い枠は白いまま、手帳を閉じた。台所で妻が瓶を揺する音がして、青い実が硬い音を立てた。

この続きに

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この宿を訪れた、別の語り手

Field Notes

法師温泉 長寿館

Overview

群馬県
Region
群馬県利根郡みなかみ町
Access
東京駅から上越新幹線で上毛高原駅約70〜80分→町営バス(猿ヶ京経由)約50〜70分→法師バス停。バスは午前2便・午後2便のみ
Price
中価格帯(1泊2食・2名で約35,700〜55,000円)

Facility

Room
本館8畳(バス・トイレなし。国登録有形文化財の明治建築)、薫山荘(書院造り二間)、法隆殿(掘りごたつ)など
Meal
夕食・朝食とも『当館おまかせ』の献立(夕食18:00〜21:00、朝食7:30〜9:00)。献立は事前公表されない

宿タイプ

  • 秘湯
  • 文化財の宿
  • 一軒宿
  • 文豪ゆかりの宿

向いている人間

  • 文化財の木造建築と足元湧出の湯そのものを目的にできる人
  • 川端康成・与謝野晶子夫妻・若山牧水ら文人の来訪歴に関心がある人
  • バス・トイレなしの部屋とおまかせの食事を受け入れられる人

向いていない人間

  • 客室に風呂・トイレが必須の人
  • 混浴に抵抗があり時間制でも避けたい人(法師乃湯は混浴が基本。女性専用20:00〜22:00)
  • 交通の自由度を求める人(バス1日4便)

予約前の注意事項

法師乃湯は混浴(女性専用時間は20:00〜22:00のみ)。本館はバス・トイレなし中心。バスに乗り遅れると猿ヶ京からタクシー。食事は選べない。チェックイン15:00〜19:30