宿と小説の読みもの、余白
RECORD № 014

十八時に閉まる湯

成果の物差しを失った人間は、何を「大漁」と呼べばいいのか

数字で組織を率いて、定年より早く退いた。成果の物差しを返したあとの時間が、まだ身体に馴染まない。妻と話していると、報告の口調が出る。出てから気づく。

克彦という語り手について →

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予定表

八月十九日、水曜。起床六時十分。早期退職して一年二か月になる。習慣というものは、辞令では変わらない。朝食後、手帳を開く。左に日付、右に予定。右が空いている。空いている、と書くと不正確だ。九時に燃えるごみ、十時に妻の車で駅まで送り、十一時に図書館。ここまでは埋まる。問題は午後である。以上、と締めたくなるが、以上のあとに何もない。

現役のころは、午後こそが本番だった。決裁が回ってきて、進捗が上がってきて、着地見込みを詰める。四半期には期初と期末があり、期末には数字が出た。出た数字が良くても悪くても、区切りはついた。いまは区切りがない。区切りがないので、終わらない。終わらないのに、何も始まっていない。

先週、妻に「午後はどうしてるの」と聞かれ、自由時間だ、と答えた。答えてから、その言い方を三日ほど考えた。自由時間、というのは、業務時間の対義語である。業務がなければ、自由時間もない。

その晩、宿を探した。条件は決めていなかったので、湯の説明が長いところを選んだ。富山の、山の中の一軒宿で、開湯は一六一七年、四百年以上前である。浴場が五種類あり、そのうちのひとつが天然の洞窟だという。そして、そこにこう書いてあった。天然洞窟野天風呂は春から秋のみ。四月二十五日オープン。利用時間 七時から十八時まで。湯に、営業時間があった。

送迎車

北陸新幹線で黒部宇奈月温泉駅へ。駅前に宿の送迎車が停まっていた。運転手は、乗る人数を数えてから、後部の扉を開けた。数えてから、開ける。順序が決まっている。私はこういう手順を見てしまい、見て、良い手順だと判断してしまう。判断したところで、いまは誰にも報告しない。

画像はイメージです

車は川沿いを遡っていった。集落が途切れ、途切れたあと、もう次が来なかった。一軒宿というのは、こういうことか、と思った。他に選択肢がない、という意味だ。十五時前に着き、フロントで洞窟の風呂について確認すると、十八時まででございます、と言われた。あと三時間ある。

部屋に荷を置いて、手帳を出した。十五時十分着、十八時まで残り二時間五十分。書いてから、書いている自分に気づいた。その行を、消さなかった。

洞窟

川を渡った先に、その湯はあった。岩を掘ったのではなく、もともと空いていたところに湯を引いたのだと思う。天井が低く、頭を下げて入った。中は暗く、外の光が入口の形に切り取られて、水面に落ちている。湯は無色透明で、匂いは薄い。炭酸水素塩泉だと書いてあった。

先客がひとりいた。奥の岩に背中を預けて、目を閉じている。私が入っても、目を開けなかった。私も岩に背をつけると、岩が冷えていて、湯との差で、背中だけが二つの温度に分かれた。しばらくして、その人が出ていった。出ていくとき、脱衣場のほうで、何か紙を繰る音がした。手帳のようなものかもしれない。私は振り返らなかった。

ひとりになった。洞窟の中は、音がよく残る。湯の落ちる音が、壁で一度返ってきてから耳に届く。十七時四十分ごろ、外の光の色が変わり、切り取られた入口の形が、白から橙になっていた。十七時五十五分に、湯を出た。終わりの時刻が決まっているものに、久しぶりに間に合った。

画像はイメージです

五種類

夕食のあと、残りの湯を見に行った。檜の桶の風呂があり、岩の露天があり、大浴場がある。五種類あると聞いていたので、五種類を確認したかった。確認する、というのは、私の癖である。妻には、確認しなくても風呂は風呂よ、と言われたことがある。返す言葉がなかった。

檜の桶は、木の匂いが立っていた。湯を張ったばかりのときが一番強く匂うのだそうだ——誰に聞いたわけでもなく、そう思った。岩の露天では、上を見た。山の稜線が黒く、その上に星が出ている。数を数えかけて、やめた。数え終わらないからである。以上。以上、と締めてみて、今回は、その先に何もなくてよかった。

朝七時

翌朝、七時に洞窟へ行った。開くのが七時だと聞いていたので、七時に行った。誰もいない。朝の光は、夕方と反対の側から入っていた。入口の形は同じで、落ちる場所だけが違う。同じ湯だが、同じではない。当たり前のことである。その当たり前を、四百年やっている湯が、ここにあった。

朝食をとって、送迎車に乗った。運転手は昨日と同じ人で、やはり人数を数えてから扉を開けた。新幹線の座席で、手帳を開き、帰宅後の予定を書こうとして、ペンを止めた。止めたまま、しばらくいた。結局、右の欄には何も書かなかった。書かなかったが、手帳は閉じずに、膝の上に開いたままにしておいた。洞窟の湯の時刻だけは、隅に書き写してある。七時から、十八時まで。次にどこかへ行くとき、その時刻に間に合うように動くのも、悪くない。

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Field Notes

小川温泉元湯 ホテルおがわ

Overview

富山県
Region
富山県下新川郡朝日町湯ノ瀬(小川温泉元湯)
Access
北陸新幹線の黒部宇奈月温泉駅、またはあいの風とやま鉄道の泊駅から宿の無料送迎あり。車は北陸自動車道 朝日ICから約20分
Price
予約サイトで確かめた二万円台後半〜(1名1室・夕朝食付) 2名1室での実測一万円台後半〜(2名1室の1名分・夕朝食付) 公開の情報から中価格帯(2名税込 二万円台半ば〜)

Facility

Room
貴賓室(1室限定・15帖+6帖+4.5帖・ヒノキの内風呂)、特別和洋室(2室限定)、和モダン(3室限定)、次の間和洋室(4室限定)、スタンダード和洋室・和室
Meal
会席料理。複数の食事プランあり

宿タイプ

  • 温泉旅館
  • 一軒宿
  • 秘湯
  • 洞窟風呂の宿

向いている人間

  • 山間の一軒宿で、周囲に他の施設がない環境を求める人
  • 天然の洞窟を利用した野天風呂に入りたい人
  • 5種類の浴場を巡りたい人
  • 中価格帯で源泉かけ流しの湯を選びたい人

向いていない人間

  • 冬季に洞窟の野天風呂を目的に訪れる人(春から秋のみの利用)
  • 夜に洞窟の野天風呂へ入りたい人(7時から18時まで)
  • 公共交通で自力到達したい人(最寄り駅から送迎が必要)
  • 温泉街の散策を楽しみたい人

予約前の注意事項

天然洞窟野天風呂は春から秋のみ、4月25日オープンで利用時間は7時から18時まで。冬季と夜間は入れない。終了時期は公式に明記がないため予約時の確認を推奨。最寄り駅からの無料送迎は運行時刻と予約要否の確認が必要。チェックイン・チェックアウトの標準時刻も要確認。料金は変動する。

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