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RECORD № 025

名前の残る仕事

成果の物差しを失った人間は、何を「大漁」と呼べばいいのか

長く数字で組織を率いて、早期退職した。成果の物差しを失った時間の使い方が、まだ身体に馴染まない。妻との会話に「報告」の口調が残っていることに、本人だけが気づいていない。

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看板

四月の第三週、乗換の都合で降りた駅から、私の足は用もないのに元の勤務先のほうへ向かっていた。四十二年のあいだ毎朝この道を歩いた足は、退職して一年が過ぎても、改札を出ると先に方角を決めてしまう。私はその足に従って、五分ほど歩いた。

ビルは変わらずそこにあった。一階のテナント案内板を見上げると、かつて私たちの部署があった四階に、聞いたことのない会社の名前が入っている。私のいた会社は去年の十月に本社を移したのだと、退職してから人づてに聞いた。聞いたときは、そうか、とだけ思った。いまこうして案内板の前に立って、私はそのとき何も思わなかった自分のことを、二分ほどかけて思っていた。案内板の前に二分立っている男は、たぶん少し変だ。現役のころなら、段取りを外した人間に見られるのが何より恐ろしかったが、いまはもう、誰も私の段取りを見ていない。

四十二年、あの会社にいた。課長職が十一年、部長職が七年。決裁の欄に私の印が押された書類が、何千枚かある。保存年限は多くが五年、契約関係で十年、それを過ぎたものから順に廃棄されていく。私の印は、これから静かに、一枚ずつこの世から消えていくのだろう。名前の残る仕事と、残らない仕事がある。私のしてきたのは、後者だった。以上——と、報告書の癖で締めてみたが、締まらなかった。締めるべき結論が、どこにもなかった。

その晩、私は宿を探した。福井のあわら温泉に、一軒あった。本館が数寄屋建築で、設計施工は名匠と呼ばれた大工の仕事だという。平田雅哉。私の知らない名前だった。知らないが、九十年が経っても、その人の名のほうは残っている。

芦原温泉駅

北陸新幹線を芦原温泉駅で降りると、雨が細く降っていた。送迎の車は十五時から十九時まで、事前予約制だと宿の頁にあったので、私は三日前に電話をして時刻を伝えてあった。その時刻の四分前に、私は駅前に立っていた。

四分前に着くのは、昔からの癖である。妻にはいつも、早すぎる、と言われる。早すぎて困ることはない、と私が答えると、待つ人が困る、と返ってくる。その返しの意味が、勤めを退いたいまになって、少しずつわかりはじめている。定刻ちょうどに来た車の運転手は、まず私の名を確かめ、それから扉を開けた。順序の決まった、いい手順だった。私は後部座席で、フロントガラスを往復するワイパーの音を、数えるともなく数えていた。

画像はイメージです

木の面

本館の廊下は、歩くと足の裏がひやりとした。数寄屋造りというものを、私は人に説明できない。できないが、床の間の柱が皮を剥いただけの丸太のまま磨かれているのは、見てわかった。角材にすれば済むところを、わざわざ丸いまま使う。そのために部屋の隅が、ほんの少しやわらかく見える。天井の板は、木目の向きが端から端まで揃っていた。揃えるには板を選ばねばならず、選ぶには余分に仕入れねばならず、余分を仕入れるには金がかかる——と、そこまで数えて、私は数えている自分に気づき、板を見上げたまましばらく動かなかった。平田雅哉という人が、この一枚一枚を選んだのだろうか。それとも、選ぶ人のほうを選んだのだろうか。どちらであっても、板の木目はいまも揃っていて、その人の名は残っている。

廊下の奥から、宿の者ではない男がひとり歩いてきた。地味な上着に、手には黒い手帳。すれ違いざま、男は歩きながら何かを書きつけていて、私とは目も合わなかった。仕事の匂いのする背中だった。私も昔、ああやって歩きながら手帳に段取りを書いた。書く相手のいなくなった手帳を、いまも鞄に入れている。

飲む湯

湯は三本の自家源泉から引いていて、源泉のかけ流し、飲むこともできると書いてあった。飲泉というものを、私は初めてした。飲み場に小さな柄杓が置いてあり、一杯だけ汲んで口に含むと、塩の味がして、少し遅れて硫黄の匂いが鼻の奥へ抜けた。うまいものではなかった。うまくもないものを、人はわざわざ汲んで飲む。その意味を私はいつものように考えようとして、今日はやめておいた。やめられたことが、自分でも少し意外だった。

夕食は個室に運ばれ、朝食も個室だという。膳を前に、私はひとりだった。現役のころ、食事はたいてい仕事だった。誰が上座で、いつ本題を切り出すか、酌の順はどうか——箸より先に段取りが動いた。段取りのいらない食事の最初の一口を、私はずいぶん久しぶりに味わった。味わっている、と自分でわかるまでに、少し時間がかかった。

画像はイメージです

田に水

翌朝も、私は同じ廊下を歩いた。昨日見上げた天井の板を、今朝の光でもう一度見た。木目の向きは、当然、昨日と同じだった。同じであることが、今朝はなぜか、いいことのように思えた。

十一時に発った。駅までの車で、運転手が、この時季は蟹も終わって静かなんですよ、と言った。静かなのがいいのですね、と私は答え、答えてから、これは相槌として正しかったろうかと考え、正しくなくてもいいのだと思い直した。行きの車で、この人は私の名を確かめてから扉を開けた。あの順序も、板の木目を揃えて選んだ誰かの手も、名前は残らない。残らないが、いまも私をこの座席に座らせ、あの部屋の隅をやわらかくしている。

新幹線の座席で、私は手帳を開いた。長いあいだ、午後の欄は会議と決裁で埋まっていた。いまは、白い。ペンを持ったまま窓の外を見ると、田に水が入りはじめていて、まだ苗のない水面に雲がひとつ映り、列車の速さでうしろへ流れていった。

少し考えて、私は帰宅後の欄に「散歩・四十分」と書いた。書いてから、こんなものは書かなくてもいい、と思った。段取りのいらない時間にまで、私はまだ段取りをつけようとしている。——けれど、消さなかった。私の四十二年も、たぶん、名前の残らない細かい手順の積み重ねだった。ならば残りの日々にも、その手順をひとつずつ置いていけばいい。とりあえず、明日は四十分歩く。うまく続くかどうかは、まだわからない。

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Field Notes

越前あわら温泉 つるや

Overview

福井県
Region
福井県あわら市温泉(あわら温泉)
Access
芦原温泉駅からタクシー約10分。無料送迎あり(15:00〜19:00・事前予約制)
Price
中〜高価格帯(2名税込 素泊34,496円〜、朝食付40,964円〜、夕朝食付70,050円〜)

Facility

Room
全22室。和室 / 和洋室。客室露天風呂付きの部屋あり
Meal
夕食・朝食とも個室での懐石膳

宿タイプ

  • 温泉旅館
  • 老舗宿
  • 数寄屋造り
  • 部屋食の宿
  • 露天風呂付き客室

向いている人間

  • 数寄屋建築の本館に泊まりたい人
  • 夕食も朝食も個室で取りたい人
  • 3本の自家源泉による源泉100%かけ流しの湯を選びたい人
  • 飲泉を試したい人

向いていない人間

  • 山中や渓谷の一軒宿を求める人(あわら温泉の温泉地にある)
  • 18時までにチェックインできない人
  • 送迎を使いたいが19時より遅く着く人

予約前の注意事項

チェックインは15:00〜18:00、チェックアウトは11:00。芦原温泉駅からの無料送迎は15:00〜19:00で事前予約制。時間外はタクシー(約10分)。一人泊の可否は明記がないため予約前に確認が必要。料金は変動する。