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留守番
息子が、一人で留守番できる、と言い出した。できる、と言われて、できるかどうかより先に、言い出したことに驚いた。夫が休みの日を選んで、留守番を頼んだ。
その晩、冷蔵庫に貼る紙を書いた。電話番号と、火は使わないこと。書いてから、二枚目を書きかけて、やめた。一枚で足りる。でも、一枚で足りると決めるのに、十五分かかった。
あの日、子を預けて一泊した友人に、久しぶりに連絡した。また行かない、と誘うと、すぐに、行く、と返ってきた。すぐに返ってきたことが、少しおかしかった。
宿は、食事が個室だと書いてあるところにした。ほかの家族の卓が見えない。見えれば、わたしはたぶん、誰が誰を連れてきているかを見てしまう。
本館は、名前の残っている大工が建てたものだと書いてあった。名前が残る仕事を、わたしはしていない。
数寄屋
芦原温泉駅から、送迎の車で宿に入った。運転手が、お二人ですか、と聞いた。はい、と答えた。そのあとに何か続くと思って身構えたが、続かなかった。
本館は数寄屋造りだという。友人が、丸太のまま使われた柱を見て、贅沢だね、とだけ言った。わたしは、その柱がどこで曲がっているかを目で追った。

数えなくなった
夕食は個室で出た。友人が、預けた時間、まだ計算しちゃう、と聞いてきた。わたしは少し考えて、しなくなった、と答えた。いつからかは、はっきり言えなかった。
友人が、あのとき何時に出たっけ、と聞いた。
五年前が何月だったかを、そこで出そうとした。出てこない。息子が何歳だったかから逆算しようとして、そこも合わなかった。
忘れた、と答えた。友人は、わたしも、と言って、次の皿に箸を入れた。膳は二品ぶん進んでいた。

膳を食べ終えるまで、何時間ぶん、という数は一度も出てこなかった。
部屋に戻って、時計を見た。八時四十分。息子が寝る時間である。電話をかけようとして、番号を出したところで止めた。止めたまま、画面が暗くなるのを待った。暗くなってから、机に伏せて置いた。
飲む湯
湯は自家源泉で、飲泉もできると聞いた。友人と一杯ずつ汲んで飲んだ。塩の味がして、少し遅れて硫黄の匂いがした。飲みものの味ではない。それなのに、二人とももう一杯汲んだ。
これも贅沢、と友人が言った。まずいけど、と続けた。言って、笑った。わたしも笑った。笑っているあいだ、家のことを何も考えていなかった。
帳場の前を通ると、腰かけて何か書いている人がいた。わたしは、そちらへ目を上げないで通った。それでも、書いているのが宿の用紙ではないことは、目に入っていた。
一段落
翌朝、友人が、子育て、一段落したのかな、と聞いた。わたしは、分からない、と答えた。答えてから、友人の湯呑みが空なのに気づいて、注いだ。
駅の売店で、友人は土産を三つ買った。わたしは一つ買って、それから戻って、もう一つ足した。足したほうは、自分のぶんである。
駅までの車で、友人が、また誘っていい、と聞いた。わたしは、うん、と答えた。次の日取りは、まだ決めていない。決めていないことを、今日はそのままにしておいた。
