宿と小説の読みもの、余白
RECORD № 005

軽い鞄が、いちばん重い

罪悪感ごと荷物を持ったまま、それでも休むこと

母を預けて出かけられるのは、一泊二日が限界だ。預けること自体に、うまく名前を付けられていない。自分が疲れている、と口に出す言い方を、長いあいだ持っていない。

美咲という語り手について →

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名前を書く

朝五時に目が覚めた。目覚ましは五時半にかけてあった。三十分、得をした。得、という言い方を、私はこういうときにもする。起きて、母の鞄を開けた。

昨夜詰めたものを、もう一度出す。着替えが三日ぶん。履き慣れた靴。お薬手帳。薬は一包化してもらってある。朝、昼、夕、寝る前。袋に日付が印字されていて、予備を入れて四日ぶん。指で数えた。二度、数えた。

持ち物の全部に、名前を書く。肌着の裾。靴下の裏。油性ペンのインクが布に滲んで、母の名前が少し太る。昔、誰かにこうしてもらったはずだ。私も。そこから先は考えなかった。靴は、かかとの潰れていないほうを入れた。転ばないのは、靴の仕事でもある。

宿のページは、二週間前から携帯の中で開いたままだった。全部で八室の宿。空室、残り一。三日眺めて、押した。押した夜に、施設の空きを確かめた。施設の空きは今週しかなくて、仕事の谷も今週だった。だから今週にした。計算はしてある。合っている。

シフト表の私の欄には、今日と明日、休、と入れてある。二日続きの休は、この職場に来て初めてだった。先週、課長に、お母さん大丈夫、と訊かれた。大丈夫です、と答えた。大丈夫です、は便利だ。言うと、訊いた側の顔がゆるむ。それで済む。済ませたのは、私のほうだ。休むのはいいことだよ、と課長は言った。いいこと。そうかもしれない。そうでないかもしれない。どちらでも、シフトはもう組まれている。

九時に送迎の車が来た。施設の人はよく通る声で母に挨拶をして、母は、ゆっくりと、でも自分の足でステップを上がった。乗り際に振り返って、私を呼んだ。みっちゃん。四十年前の呼び方だった。はい、と返事をした。車が角を曲がるまで見ていて、曲がってからも、少し見ていた。

施設なら、入浴は二人がかりでやってくれる。夜中も交代で人が起きている。私ひとりの家より安全だ。そのほうが母のためにもいい。玄関に戻ると、上がり框に薬の袋の輪ゴムがひとつ落ちていて、拾って、ポケットに入れた。

自分の鞄を詰めた。母の荷造りには一時間かかった。自分のは、五分で終わった。

乗換なし、九十五分

東京駅の東海道線ホームで、乗換案内の画面をもう一度見た。湯河原まで直通、約九十五分。乗換、なし。なし、のところを、もう一度見た。

新幹線なら早い。小田原で乗り換えれば、ずいぶん違う。でも、乗換のたびに思い出す。エレベーターの場所。段差。母の歩く速さに合わせて、発車を一本、二本と見送ってきた、あの乗り換えの全部を。今日は座ったら、着くまで立たなくていい。それで選んだ。

車内は空いていた。斜め前の席に小さい子を連れた母親がいて、子どもが窓に手のひらをつけていた。見て、逸らした。窓の外を見た。

横浜を過ぎたあたりから、線路際に紫陽花が増えた。雨を吸って、色が濃い。携帯を見た。着信、なし。三時前。施設では、おやつの時間だ。母は甘いものを最後まで残して食べる。鳴らない携帯は、いい知らせだ。画面を伏せて、膝に置いた。

少し、眠ったらしい。目を開けると窓の雨が細かくなっていて、膝の携帯をまず確かめた。着信、なし。眠っていたのは十分ほどだった。十分でも、眠れた。座ったまま眠れる場所を、私はいつも探している。

宿を探した夜の検索で一度だけ、百年あまり前にこの町へ療養に来た作家の遺作が、湯河原の場面のまま終わっていると知った。それだけ覚えている。

小田原を過ぎて、急に窓が広くなった。海だった。雨の相模灘は灰色で、空との境目がなかった。根府川、という小さな駅に停まる。無人のホームの柵のすぐ向こうが、海だった。誰も降りない。誰も乗らない。扉が閉まって、濡れたホームだけが後ろへ流れた。

湯河原で降りて、タクシーに乗った。車は山側へ登っていく。石垣の上から紫陽花が道へ張り出して、雨が葉を叩いていた。十分ほどで着いた。

十六時の玄関

数寄屋の屋根が雨に濡れて、黒く光っていた。軒が深い。雨だれが軒先から等間隔に落ちて、敷石の際に細い水の線を引いている。十六時。チェックインは十五時から十八時半までと決まっていて、間に合った、とまず思った。間に合った、で始まらない外出を、しばらく思い出せなかった。

全部で八室だと、案内の途中で聞いた。廊下で誰ともすれ違わなかった。部屋は簡素で、床の間に青い花が一輪。窓の外は雨に烟る斜面で、紫陽花の青だけが色を保っていた。部屋の浴槽には、自家源泉の湯が引かれていた。触ると、熱かった。案内の足音が廊下を遠ざかると、あとは軒の雨だれだけになった。

夕方の障子は、雨の分だけ早く暗くなった。灯りをつける時間を、自分ひとりのために決めた。夕飯は六時にお願いします、と言った。私が決めた六時だった。

画像はイメージです

荷物を解いた。解く、というほどの量ではなかった。着替えと、充電器と、財布。鞄は部屋の隅に置いた。軽いのに、置く場所を決めるまで、しばらく持っていた。

湯に入った。肩まで沈むと、腰の右側がゆっくり緩んでいくのが分かった。母を支えるとき、いつも同じ側で支える。その側だった。左の奥歯の、取れかけた詰め物を舌の先で触る癖が出て、やめた。歯医者の予約は、二度変えたままになっている。

窓を細く開けると、雨の音が入ってきた。軒の雨だれが敷石を打つ、太い、間隔のある音。数えるでもなく、聞いていた。携帯は脱衣籠の上に置いた。鳴れば、ここからでも聞こえる。聞こえる場所にあれば、それでいい。

熱いまま

六時に、襖の外で足音が止まった。声がかかって、膳が入ってきた。夕食は部屋に運ばれてくる。朝もそうだと言われた。誰にも会わずに、食事が済む。

椀の蓋を取ると、湯気が顔に当たった。味噌汁が、熱かった。熱いまま飲むのは、久しぶりだった。家では母の分を先に整えて、自分の椀は、いつも少し冷めている。冷めた味噌汁が嫌いなわけではない。ただ、熱いのを飲むと、熱い、とちゃんと思うのだと知った。

器は多くない。素材の輪郭が残る料理が、急がされない間隔で運ばれてきた。魚の骨が、きれいに外れた。急がない食べ方を、体が思い出すのに少しかかった。膳が下げられると、部屋には雨だれの音だけが残った。

画像はイメージです

布団は、いつの間にか敷かれていた。敷く側ではなく、敷かれた布団に入る側だった。九時。施設は消灯の時間だ。母はもう布団の中にいる。私は部屋の灯りをひとつ落として、でも眠らずに、窓の際に座っていた。母がまだ台所に立っていた頃は——。やめた。数えるのは、薬の袋だけでいい。誰にも呼ばれない夜だった。呼ばれたら聞こえる場所に、携帯はある。眠くなるまで座っていて、眠くなったから、寝た。それだけのことが、それだけのこととして、できた。

朝は霧だった。障子を開けると、斜面の紫陽花が霧の中で青だけになっていた。朝の膳も部屋に来た。昨夜と同じ足音だった。一晩で、足音を覚えていた。

会計を済ませて玄関へ出ると、先に一人、上がり框で靴を履いている人がいた。胸ポケットに手帳を差した、私と同じ年頃の男の人だった。軽く会釈をして、先に霧の中へ出ていった。

帰りの鞄

帰りも、直通の上りにした。小田原まで海側の席に座ると、根府川で霧の海がもう一度開けた。昨日の雨の海より、近くに見えた。無人のホームは今朝も濡れていた。

携帯を見た。着信、なし。施設に一本だけ電話を入れた。お変わりないですよ、と言われて、すみません、と言った。すみません、じゃなくて、ありがとうございます、だった。言い直さなかった。次に言う。

膝の上の鞄は、来たときと同じ中身だ。着替えと、充電器と、財布。軽い。軽いのに、網棚に上げる気にならなくて、膝に置いたままにした。置いてきたものが入っているような重さが、底のほうにある。開けても何も増えていないのは、知っている。——でも、いい。持って帰る。

明日の昼、迎えに行く。みっちゃん、と呼ばれたら、はい、と返す。夕方は薬局で、来月分の受け取り。シフト表の来月の欄は、まだ白い。

窓の外の紫陽花を、ひとつ、ふたつ、と数えた。数え終わる前に、トンネルに入った。

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Field Notes

石葉

Overview

神奈川県
Region
神奈川県足柄下郡湯河原町(宮上)
Access
東京駅からJR東海道線直通約95分で湯河原駅(または新幹線で小田原乗換)、駅からタクシー約10分
Price
予約サイトで確かめた十万円台前半〜(1名1室・夕朝食付) 2名1室での実測六万円台半ば〜(2名1室の1名分・夕朝食付) 公開の情報から高価格帯(2名1泊2食 約14.4万円〜。1名1室では十万円台前半〜・夕朝食付)

Facility

Room
数寄屋造りの和室 全8室(本館と離れ)。各室に自家源泉の浴槽
Meal
夕食は素材を生かした日本料理。夕朝食とも原則客室で提供(部屋食)

宿タイプ

  • 温泉旅館
  • 数寄屋造り
  • 小規模宿

向いている人間

  • 部屋食で滞在中に他客とほぼ会わずに過ごしたい人
  • 全8室の小規模宿で静かに一泊二日を過ごしたい人
  • 東京から乗換なし約1時間半で行ける近距離の温泉宿を探す人

向いていない人間

  • 駅から徒歩でアクセスしたい人(タクシー約10分)
  • 1名10万円台〜の宿泊費を想定していない人
  • 大型浴場や館内施設の充実を求める人

予約前の注意事項

チェックイン受付は15:00〜18:30で遅い到着は不可の可能性。全8室のため予約枠が少ない。送迎の有無は要電話確認

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