宿と小説の読みもの、余白
RECORD № 076

部屋を、二つ

終わりのある仕事の豊かさ。毎日新しく終わること

定年のあと、一人で旅をしている。記録は万年筆で、誰にも読ませない速さで付ける。急がない。並ばない。名所を名所として見ない。終わりのある仕事は、毎日新しく終われた。

修一という語り手について →

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部屋を、二つ

「部屋、二つ取ったから」と娘が言った。

理由は聞かなかった。

先月、銀行の窓口で暗証番号を三度間違えた。四度目に、指の腹に汗が出た。行員は、ゆっくりで大丈夫ですよ、と言った。悪気は無い。悪気の無い言い方をされる側に、いつのまにか回っていた。

前に二人で泊まったとき、私は四時半に目を覚ました。娘は隣の布団で寝ていた。起こさないように、暗いまま座って、六時まで待った。座っていることは、たぶん伝わっていた。朝、娘は何も言わなかった。

宿を取るのは、この二度とも娘だった。金額は聞いていない。聞かないでいるうちに、聞ける時期を過ぎた。

電話の向こうで、娘は宿の名前だけ告げた。石葉、という字を、後で調べた。八室しかなく、部屋ごとに湯があると出ていた。娘の入る時間を私が待たなくてよく、私の入る時間を娘が待たなくてよい。聞いてはいない。

乗り換えなし

東京駅から、乗り換えなしの電車で九十五分だった。時刻表を読んだが、指定した便より一本早いのに乗った。娘には言わなかった。

湯河原の駅からタクシーで入った。

画像はイメージです

帳場の脇で、時刻表くらいの厚さの本が閉じられた。男が一人、それを鞄へ入れてから、鍵を受け取りに立った。開き癖は一箇所しかない。

お部屋は向かい合わせで承っております、と帳場の人が言った。隣同士にもできましたが、いかがなさいますか、と続いた。

答えられなかった。娘がどういうつもりで二つ取ったのかを知らないので、どちらがいいのかも分からない。分からないと言えば、聞かなかったことになる。帳場の人は、鍵を二つ台に並べた。並べて、そのままにした。娘は少し離れて、庭のほうを見ている。

このままで、と私は言った。娘は振り向かなかった。

娘の部屋は、私の部屋と、廊下を挟んで向かいだった。荷物を置いて、廊下に出た。向かいの障子は閉まっていた。廊下は四歩で渡れる。四歩を、渡らずに部屋へ戻った。

自分の湯

部屋には、それぞれに湯があった。自家源泉だという。

夕方のうちに、一度入った。窓を細く開けると、湯の音のほかに、廊下の向こうで水を張る音がした。しばらくして、止まった。止まってから、また細く出しはじめた。私は自分の湯の縁に頭をつけて、その音が終わるまで動かなかった。

画像はイメージです

長く一緒に暮らした頃は、風呂の順番があった。私が先、母が後、娘は最後。

夕方、帳場から内線があった。明日のお発ちは何時ごろに、と聞かれた。娘に聞いてみます、と答えて、受話器を置いた。廊下へ出て、向かいの障子の前まで行き、叩かずに戻った。

夕食は、一緒の卓で取った。卓で聞くと、娘は、十時、と即座に言った。

娘は、会社の話を少しした。持ち帰る、という言い方をした。私の頃は、持って帰る、と言っていた。私は、時刻表の話を少しした。

娘が茶を注ごうとしたので、急須を先に取った。取ってから、娘の手が止まっているのが見えた。私は注いで、急須を娘の側へ置き直した。

四歩

四時半に目が覚めた。障子を開けて、明るくなるまで庭を見ていた。

七時に廊下へ出て、四歩を渡った。障子の前で、二度だけ叩いた。

開けたのは娘で、髪がまだ濡れていた。「よく眠れた」と言った。私も、よく眠れた、と答えた。四時半のことは言わなかった。

東京駅の改札の前で、次は私が取る、と言った。娘は、うん、と言った。券売機の列が動いて、私たちは横へ寄った。寄ってから、娘は、じゃあ、と言って先に行った。

帰りの電車で、手帳を開いた。「部屋、二つ」とだけ書いた。理由の欄は、空けておいた。

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Field Notes

石葉

Overview

神奈川県
Region
神奈川県足柄下郡湯河原町(宮上)
Access
東京駅からJR東海道線直通約95分で湯河原駅、駅からタクシー約10分。新幹線利用の場合は東京—小田原約35分、在来線に乗り換えて約16分。
Price
予約サイトで確かめた十万円台前半〜(1名1室・夕朝食付) 公開の情報から高価格帯(1名1室 夕朝食付 税込十万円台前半〜。2名1室では約14.4万円〜)

Facility

Room
数寄屋造りの和室 全8室(本館と離れ)。各室に自家源泉の浴槽
Meal
夕食は素材を生かした日本料理。夕朝食とも原則客室で提供(部屋食)

宿タイプ

  • 温泉旅館
  • 数寄屋造り
  • 小規模宿

向いている人間

  • 成人した子と、部屋を分けて泊まりたい親子
  • 部屋ごとに湯があり、互いの時間を待たずに済ませたい二人
  • 全8室の小規模宿で静かに過ごしたい人

向いていない人間

  • 同室で家族の時間を密に過ごしたい人(部屋を分けると割高になる)
  • 予算を抑えたい人(1室あたり高価格帯)
  • 駅から歩ける距離の宿を求める人(駅からタクシー約10分)

予約前の注意事項

部屋を分けると、2名1室の場合よりも総額が上がる(1名1室夕朝食付 税込100,100円〜が2室ぶん)。料金は変動する。

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