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部屋を、二つ
「部屋、二つ取ったから」と娘が言った。
理由は聞かなかった。
先月、銀行の窓口で暗証番号を三度間違えた。四度目に、指の腹に汗が出た。行員は、ゆっくりで大丈夫ですよ、と言った。悪気は無い。悪気の無い言い方をされる側に、いつのまにか回っていた。
前に二人で泊まったとき、私は四時半に目を覚ました。娘は隣の布団で寝ていた。起こさないように、暗いまま座って、六時まで待った。座っていることは、たぶん伝わっていた。朝、娘は何も言わなかった。
宿を取るのは、この二度とも娘だった。金額は聞いていない。聞かないでいるうちに、聞ける時期を過ぎた。
電話の向こうで、娘は宿の名前だけ告げた。石葉、という字を、後で調べた。八室しかなく、部屋ごとに湯があると出ていた。娘の入る時間を私が待たなくてよく、私の入る時間を娘が待たなくてよい。聞いてはいない。
乗り換えなし
東京駅から、乗り換えなしの電車で九十五分だった。時刻表を読んだが、指定した便より一本早いのに乗った。娘には言わなかった。
湯河原の駅からタクシーで入った。

帳場の脇で、時刻表くらいの厚さの本が閉じられた。男が一人、それを鞄へ入れてから、鍵を受け取りに立った。開き癖は一箇所しかない。
お部屋は向かい合わせで承っております、と帳場の人が言った。隣同士にもできましたが、いかがなさいますか、と続いた。
答えられなかった。娘がどういうつもりで二つ取ったのかを知らないので、どちらがいいのかも分からない。分からないと言えば、聞かなかったことになる。帳場の人は、鍵を二つ台に並べた。並べて、そのままにした。娘は少し離れて、庭のほうを見ている。
このままで、と私は言った。娘は振り向かなかった。
娘の部屋は、私の部屋と、廊下を挟んで向かいだった。荷物を置いて、廊下に出た。向かいの障子は閉まっていた。廊下は四歩で渡れる。四歩を、渡らずに部屋へ戻った。
自分の湯
部屋には、それぞれに湯があった。自家源泉だという。
夕方のうちに、一度入った。窓を細く開けると、湯の音のほかに、廊下の向こうで水を張る音がした。しばらくして、止まった。止まってから、また細く出しはじめた。私は自分の湯の縁に頭をつけて、その音が終わるまで動かなかった。

長く一緒に暮らした頃は、風呂の順番があった。私が先、母が後、娘は最後。
夕方、帳場から内線があった。明日のお発ちは何時ごろに、と聞かれた。娘に聞いてみます、と答えて、受話器を置いた。廊下へ出て、向かいの障子の前まで行き、叩かずに戻った。
夕食は、一緒の卓で取った。卓で聞くと、娘は、十時、と即座に言った。
娘は、会社の話を少しした。持ち帰る、という言い方をした。私の頃は、持って帰る、と言っていた。私は、時刻表の話を少しした。
娘が茶を注ごうとしたので、急須を先に取った。取ってから、娘の手が止まっているのが見えた。私は注いで、急須を娘の側へ置き直した。
四歩
四時半に目が覚めた。障子を開けて、明るくなるまで庭を見ていた。
七時に廊下へ出て、四歩を渡った。障子の前で、二度だけ叩いた。
開けたのは娘で、髪がまだ濡れていた。「よく眠れた」と言った。私も、よく眠れた、と答えた。四時半のことは言わなかった。
東京駅の改札の前で、次は私が取る、と言った。娘は、うん、と言った。券売機の列が動いて、私たちは横へ寄った。寄ってから、娘は、じゃあ、と言って先に行った。
帰りの電車で、手帳を開いた。「部屋、二つ」とだけ書いた。理由の欄は、空けておいた。
