宿と小説の読みもの、余白
RECORD № 075

特に用は無い

選ばなかった人生を説明しない、静かな肯定

子を持たない生き方を選んだ。そこに至る道のりを、誰にも説明しない。説明しないことは、隠すことではない。他所の物差しで測られない練度が、少しずつ上がっている。

有希という語り手について →

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特に用は無い

「特に用は無いけど」と言った。前置きだった。前置きなのに、それで全部だった。

兄からの電話だった。有馬から、二か月ほど経っていた。前のときも、同じ言い方だった。

一月に、後輩の育休の引き継ぎを二人ぶん引き受けた。決まるまでの会議は十分で終わった。有希さんは動けるから、と部長が言った。反論はしなかった。手帳の二月の頁を開いて、また閉じた。引き継ぎ書は二冊で二百四十頁あって、その日のうちに読んだ。

席に戻って、湯呑みに口をつけた。冷めていた。冷めているのが分かってから、飲み干した。

二月に三日続けて休むつもりで、卓上のカレンダーには十一日から先に線を引いてあった。引き継ぎが決まった日に、消しゴムをかけた。跡は残った。

秩父の宿を、兄が調べていた。西武秩父から車で十分ほどだという。近い。部屋は十二。夕食は、付けても付けなくてもいい。

カレンダーに鉛筆を当てて、線は引かずに置いた。

十分ほど

池袋から西武池袋線の特急に乗った。一時間ほどで、西武秩父に着いた。

送迎は、十六時の便にした。助手席に、軍手が片方だけ置いてあった。

「この時期は空いてます。紅葉も終わって、雪もまだで、ちょうど何も無い時期なんです」と運転手が言った。いちばん儲からん時期でしょう、と兄が言った。運転手は笑って、そうです、と答えた。

画像はイメージです

宿は、文政十年に建ったという。玄関に、来客用のスリッパが不揃いに並んでいた。数えると、十一足あった。私は履かずに、そのまま上がった。

私たちの部屋は、素泊まりのプランで取った。夕食も、決めていなかった。

何も決めずに

夕方、宿の人に、この辺りで食べる場所はあるかと聞いた。歩いて五分の店を教えてもらった。蕎麦屋だった。

蕎麦屋の隅の卓に、男が一人座っていた。手帳を開いて、何行か書いた。書いてから、二度読み返していた。もりを一枚だけ頼んで、長く座っていた。店主は、何も聞かなかった。

兄と、隣り合って座った。私はもり、兄はかけを頼んだ。もりが先に来て、かけは少し遅れた。兄は、先に食べろ、と言った。私は箸を割って、置いた。

店主が、うちは十時に閉めますと言った。兄は湯呑みを置いた。私は箸袋を折った。

画像はイメージです

宿に戻ると、湯に入った。加温だと貼り紙にあった。源泉は十五度の冷たい水で、それを沸かして使っているという。

兄が湯に手を入れて、ぬるい、と言った。言って、それきりだった。

私は待っていたが、兄は肩まで沈んだ。湯気が梁のところでたまって、また落ちてきた。加温の貼り紙の隅が、その湿りでめくれていた。兄が上がるまで、それを見ていた。

兄は先に上がった。私は残って、湯船の縁の目地を見ていた。一本だけ白い。指でなぞると、そこだけ滑らかだった。何度かなぞってから、手を湯に戻した。

部屋に戻ると、兄は先に寝ていた。いびきは無かった。私は電気を消して、障子の外が思ったより明るいのを見ていた。看板の灯りだった。桟の影を数えかけて、六本でやめた。外で車が一台通って、あとは通らなかった。

朝、送迎バスで駅まで戻った。改札の前で別れた。

その晩、私から電話をかけた。「次も、特に用は無いときにしよう」と言った。

兄は、そうする、と言った。

理由を聞かれる前に、切った。

カレンダーの、消しゴムの跡の残っている週に、線を引き直した。三日ではなく、一泊ぶんだけ。

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Field Notes

秩父七湯「御代の湯」 新木鉱泉旅館

Overview

埼玉県
Region
埼玉県秩父市(秩父七湯)
Access
池袋駅から西武池袋線の特急で西武秩父駅へ約1時間。宿の無料送迎は予約制で15:00/16:00/17:00発の3便のみ(利用は30分前までに電話)。帰りは宿発9:50/11:00。
Price
公開の情報から中価格帯(素泊まり1名1室 税込一万円に届かない)

Facility

Room
和室12室。8畳(バス・トイレなし)/12畳(バス・トイレ付)/12畳(露天風呂付)の3タイプ
Meal
夕食付・朝食付・素泊まりの各プランから選べる

宿タイプ

  • 温泉旅館
  • 老舗宿
  • 山間の宿

向いている人間

  • 素泊まりで気軽に行きたい二人
  • 駅から送迎があり、車を持たずに山あいの宿へ入りたい人
  • 創業1827年の建物に残る8畳間に泊まりたい人

向いていない人間

  • 源泉かけ流しにこだわる人(循環ろ過・約15℃の冷鉱泉を加温)
  • 到着と出発の時刻を自由に決めたい人(送迎は定時制)
  • 貸切風呂を気軽に使いたい人(有料)

予約前の注意事項

湯は循環ろ過で、源泉は約15℃の冷鉱泉を加温して使う。送迎は予約制で、利用は30分前までに電話が要る。パジャマ・バスローブの備えはない。料金は変動する。

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