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差額
素泊まり九千五百四十円。夕朝食付き一万五千九百円。差額、六千三百六十円。
予約の画面を開いたまま、この引き算を三回やった。三回とも同じ数字が出た。当たり前だ。当たり前のことを三回やるくらいには、決めかねていた。
十月の締切まで、枚数が足りない。足りない、という言い方は正確じゃない。書けたぶんが少ない。少ないというか——まあ、いい。とにかく足りない。
日払いの現場を三日入れて、その三日ぶんで一泊できる。夕食を抜けば、四日目を入れなくて済む。六千三百六十円は、一日ぶんの食費よりは高い。それだけの理由で、僕は素泊まりを押した。
プランの名前に、百八十年前から残る部屋、と書いてあった。八畳一間。文政十年の創業だという。文政がいつなのか、僕はその場で調べた。一八二七年だった。
そこで書けるかどうかは、部屋のせいではない。分かっている。分かっているのに、そこなら書ける気がした。
ラビュー
池袋から特急に乗った。窓が大きくて、床まで景色がある。前の席に座った子どもがずっと窓に手をついていて、指の跡が五つ並んで残った。
飯能を過ぎると、線路が山に入る。トンネルの手前で、耳が詰まる。

西武秩父の駅前で、送迎を待った。十五時、十六時、十七時。三十分前に電話をください、と書いてあったので、駅に着いてすぐかけた。十六時の便に乗ります、と言った。声が思ったより低く出た。
ワゴンに乗ったのは僕を入れて三人だった。十分で山に入った。
八畳一間
通されたのは八畳で、床の間があって、天井の板が飴色だった。トイレは廊下。窓を開けると、下に川があるらしい音がした。
ノートを出して、机に置いた。机はなくて、座卓だった。座卓に置いた。
風呂へ行った。卵水と呼ばれているらしい。手のひらでこすると、指が滑って止まらない。源泉は十五度で、沸かして使っていると掲示にあった。循環している、とも書いてあった。書いてあることを、書いてあるとおりに読んだ。
貸切風呂は五十分で千八百九十円。今日の僕の勘定には入れていなかったので、大浴場に戻った。
上がって、ロビーを通ったら、本棚の前に男が立っていた。背表紙を端から目で追っていて、一冊も抜かなかった。抜かないまま、そこにいた。
卵水
部屋に戻って、書いた。二十行。それから止まった。
止まったのは、腹が減っていたからだ。夕食を抜いたのは僕の判断で、判断の結果として、二十行で止まった。ノートに「腹が減って書けない」と書いて、それは作品ではないので、線を引いて消した。消した線の下に、まだ字が読めた。

自販機に、カップの汁物があった。買った。二百円。差額の六千三百六十円から引くと、まだ六千百六十円が浮いている計算になる。計算をしている自分が、いちばん書いていない。
窓の外で、蜩が鳴いていた。夏の終わりの鳴き方を、僕は毎年、書こうとして書けない。今年も書けなかった。
十時に消灯した。消灯というか、僕が電気を消した。天井の板の木目が、暗くなってから少し見えた。
カツ丼
朝の送迎は九時五十分と十一時。十一時を選んだ。一時間十分ぶん、多く書ける計算だった。
実際には、八時に目が覚めて、九時までノートを開いて、九時から十時半まで湯に入っていた。湯の中では何も書けない。分かっていて入った。
十一時の便で駅まで戻って、駅前でわらじカツ丼を食べた。肉が丼から二枚はみ出していた。八百円くらいだったと思う。食べ終わって、店を出て、電車まで二十分あった。
ホームのベンチでノートを開いて、昨日の二十行の下に、一行足した。それから、ページの端に別のことを書いた。
「次は二食付きにする」
理由の欄をノートに作る癖はないけれど、その下に、書くために食う、とだけ書いた。続くかどうかは、十月に分かる。
