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彼岸の前
実家の段ボールは、まだ半分ある。夏に一つ開けて、中を見て、閉じた。それきり。急いでいない。急がないことにしている、というほどのものでもない。
母が丸をつけていた旅行雑誌の切り抜きは、机の上に置いてある。行き先はまだ調べていない。調べると、理由を考えることになる。
叔母から電話があった。法事の日取り。十一月の第二日曜。それだけの用件で、二十分話した。最後に、あなたは身軽でいいわね、と言われた。
私は、そうですね、と言った。それだけ言った。切ってから、心の中でいつもの札を貼った。※個人の感想です。貼ると、だいたい収まる。
カレンダーを見た。彼岸の入りの前に、平日が一日空いていた。空いている日を、私は先に押さえる。
河毛
米原で在来線に乗り換えた。北陸本線。二駅目に虎姫という駅があって、その次が河毛だった。

改札を出たら、送迎の車が停まっていた。一名からでも出しますと、予約のときに書いてあった。運転手のほかに、乗っているのは私だけだった。
七分で着いた。途中、稲の刈り取りが済んだ田と、まだの田が交互に現れた。済んだ田のほうが色が薄い。畦に葛が伸びて、電柱の下まで巻いていた。
窓の外に山が近づいて、あれが小谷山です、と言われた。私は、はい、と答えた。山の名前を聞いても、私はたいてい憶えない。今回は憶えた。
にごり湯
宿は山あいに一軒で建っていた。全部で二十一室あるという。人の気配はあるのに、廊下では誰にも会わなかった。
湯に入った。鉄の匂いがする。湯は赤茶色で、腕を入れると肘から先が消えた。消えたところは、見えないだけで、ある。

露天は時間で男女が入れ替わると書いてあった。夜の十一時から朝の六時までは清掃で入れない。入れない時間が決まっているのは、こちらの都合を考えなくて済むので、楽だった。
廊下の壁に、この湯を戦国の武将たちが使ったという掲示があった。お市の方と、その娘たちの名前もあった。私はそれを読んで、次の額へ移った。
湯上がりに、廊下の窓辺で水を飲んでいる男がいた。膝に手帳を載せていた。飲み終わって、手帳を開かないまま立ち上がって、行った。
鴨
夕食は個室ではなく、仕切りのある席だった。懐石で、途中に鴨の鍋が出た。近江の鴨だという。葱が甘くて、私は葱だけを二回おかわりした。
隣の席に、四人家族が来た。子どもが二人。下の子が箸を落として、母親が拾って、店の人が新しいのを持ってきた。三十秒ほどの出来事だった。
私はそれを見て、それから自分の膳に戻った。特に何も起きなかった。起きなかったことを、あとで思い出す気がした。
部屋に戻って、窓を開けた。虫が鳴いていた。種類は分からない。分からないものに名前をつけないでおくのは、私の得意なことだ。
萩
朝六時に、湯が開いた。開いたところに入った。誰もいなかった。
赤茶色は、朝の光で少し明るく見えた。桶にすくうと、指のあいだが赤く残る。洗い流すと、落ちた。
送迎の車を待つあいだ、玄関の外に萩が咲いていた。枝が垂れて、赤紫が地面に近いところで揺れていた。写真は撮らなかった。撮ると、誰かに見せる先を考える。
十一月の第二日曜。返信はがきは、帰ったら出す。出席に丸をして、それ以外の欄には何も書かない。
身軽でいいわね、には、次も返事をしない。決めたのはそれだけで、それで足りている。
