宿と小説の読みもの、余白
RECORD № 058

説明はしない、と決める

選ばなかった人生を説明しない、静かな肯定

子を持たない生き方を選んだ。そこに至る道のりを、誰にも説明しない。説明しないことは、隠すことではない。他所の物差しで測られない練度が、少しずつ上がっている。

有希という語り手について →

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彼岸の前

実家の段ボールは、まだ半分ある。夏に一つ開けて、中を見て、閉じた。それきり。急いでいない。急がないことにしている、というほどのものでもない。

母が丸をつけていた旅行雑誌の切り抜きは、机の上に置いてある。行き先はまだ調べていない。調べると、理由を考えることになる。

叔母から電話があった。法事の日取り。十一月の第二日曜。それだけの用件で、二十分話した。最後に、あなたは身軽でいいわね、と言われた。

私は、そうですね、と言った。それだけ言った。切ってから、心の中でいつもの札を貼った。※個人の感想です。貼ると、だいたい収まる。

カレンダーを見た。彼岸の入りの前に、平日が一日空いていた。空いている日を、私は先に押さえる。

河毛

米原で在来線に乗り換えた。北陸本線。二駅目に虎姫という駅があって、その次が河毛だった。

画像はイメージです

改札を出たら、送迎の車が停まっていた。一名からでも出しますと、予約のときに書いてあった。運転手のほかに、乗っているのは私だけだった。

七分で着いた。途中、稲の刈り取りが済んだ田と、まだの田が交互に現れた。済んだ田のほうが色が薄い。畦に葛が伸びて、電柱の下まで巻いていた。

窓の外に山が近づいて、あれが小谷山です、と言われた。私は、はい、と答えた。山の名前を聞いても、私はたいてい憶えない。今回は憶えた。

にごり湯

宿は山あいに一軒で建っていた。全部で二十一室あるという。人の気配はあるのに、廊下では誰にも会わなかった。

湯に入った。鉄の匂いがする。湯は赤茶色で、腕を入れると肘から先が消えた。消えたところは、見えないだけで、ある。

画像はイメージです

露天は時間で男女が入れ替わると書いてあった。夜の十一時から朝の六時までは清掃で入れない。入れない時間が決まっているのは、こちらの都合を考えなくて済むので、楽だった。

廊下の壁に、この湯を戦国の武将たちが使ったという掲示があった。お市の方と、その娘たちの名前もあった。私はそれを読んで、次の額へ移った。

湯上がりに、廊下の窓辺で水を飲んでいる男がいた。膝に手帳を載せていた。飲み終わって、手帳を開かないまま立ち上がって、行った。

夕食は個室ではなく、仕切りのある席だった。懐石で、途中に鴨の鍋が出た。近江の鴨だという。葱が甘くて、私は葱だけを二回おかわりした。

隣の席に、四人家族が来た。子どもが二人。下の子が箸を落として、母親が拾って、店の人が新しいのを持ってきた。三十秒ほどの出来事だった。

私はそれを見て、それから自分の膳に戻った。特に何も起きなかった。起きなかったことを、あとで思い出す気がした。

部屋に戻って、窓を開けた。虫が鳴いていた。種類は分からない。分からないものに名前をつけないでおくのは、私の得意なことだ。

朝六時に、湯が開いた。開いたところに入った。誰もいなかった。

赤茶色は、朝の光で少し明るく見えた。桶にすくうと、指のあいだが赤く残る。洗い流すと、落ちた。

送迎の車を待つあいだ、玄関の外に萩が咲いていた。枝が垂れて、赤紫が地面に近いところで揺れていた。写真は撮らなかった。撮ると、誰かに見せる先を考える。

十一月の第二日曜。返信はがきは、帰ったら出す。出席に丸をして、それ以外の欄には何も書かない。

身軽でいいわね、には、次も返事をしない。決めたのはそれだけで、それで足りている。

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Field Notes

須賀谷温泉

Overview

滋賀県
Region
滋賀県長浜市(小谷城跡・須賀谷)
Access
JR北陸本線「河毛」駅から宿の送迎で約6〜7分(1名から利用可)。車は北陸自動車道 長浜ICから国道365号を北上して約20分
Price
予約サイトで確かめた二万円台半ば〜(1名1室・夕朝食付) 2名1室での実測一万円台後半〜(2名1室の1名分・夕朝食付) 公開の情報から中価格帯(夕朝食付2名1室で1名あたり税込二万円台前半〜。1名1室利用は二万円台半ば〜)

Facility

Room
和室17室・和洋室4室の全21室。全室バス・トイレ付
Meal
夕朝食付。旬の懐石。近江鴨の鍋や地酒(七本槍)の飲み比べを付けるプランもある

宿タイプ

  • 温泉旅館
  • 山あいの宿
  • にごり湯

向いている人間

  • 赤褐色のにごり湯を加温しつつ掛け流しで使う宿を求める人
  • 小谷城跡・浅井氏ゆかりの土地を歩くのに合わせて泊まりたい人
  • 駅から1名でも送迎してもらえる宿を探している一人客

向いていない人間

  • 深夜や早朝に湯へ入りたい人(23:00〜6:00は清掃時間で大浴場に入れない)
  • 小規模な宿を求める人(全21室で、この連載の中では大きめ)
  • ペットが苦手な人(ペット同伴可のプランがある)

予約前の注意事項

大浴場・露天は23:00〜6:00が清掃時間で入れない。露天は男女入れ替え(時間交代)制。湯は加温。ペット同伴可のプランがある。冬期は車の場合チェーンまたは雪用タイヤが要る。宿が掲げる「お市の方・浅井三姉妹ゆかり」はプラン名・館内の説明に出る表記で、一次史料で確認したものではない。

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