宿と小説の読みもの、余白
RECORD № 059

従わない、では入れない

終わりのある仕事の豊かさ。毎日新しく終わること

定年のあと、一人で旅をしている。記録は万年筆で、誰にも読ませない速さで付ける。急がない。並ばない。名所を名所として見ない。終わりのある仕事は、毎日新しく終われた。

修一という語り手について →

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窪川

沖縄から帰って、しばらく経つ。あのとき妻に頼まれた紅型の小物入れは、玄関の壁に、紐で掛かっている。掛けたのは妻だ。

今度の旅では、何も頼まれなかった。

先週、玄関の電球が切れていたので、脚立を出した。出したところで、もう替わっているのに気づいた。妻は台所にいて、こちらを見ずに、朝のうちにやった、と言った。脚立をたたんで、元の場所に戻した。三十秒もかからなかった。

その晩、時刻表を開いた。土讃線の頁には、鉛筆で丸を付けた駅が七つある。丸を付けたのは、五十代の終わりだったと思う。七つのうち、降りたのは二つだ。窪川は、丸が付いたままの駅だった。

丸の残っている五つを、順に見た。窪川からバスで三十五分の山あいに、湯を二つ持つ宿があると出ていた。泉質が違うのだという。二つあれば、片方が塞がっていても、もう片方に入れる。

岡山で乗り換えて、四国に入って、山を越えて、海を見て、また山に入る。特急の車内で、駅名を目で追った。

窪川で降りた。ホームが広い。使われていない線路が一本、草に埋もれていた。鉛筆の丸を、指で消した。消しゴムは持っていないので、爪でこすっただけだった。跡は残った。

三十五分

駅前から、四万十交通のバスに乗った。松葉川温泉行き。三十五分。

乗客は、私のほかに二人。どちらも地元の人で、途中の集落で降りた。降りるとき、運転手と短く言葉を交わしていた。何を言ったのかは聞き取れなかった。

画像はイメージです

窓の外は、川に沿った道だった。水が澄んでいて、底の石が見える。刈り入れの済んだ田が、山の際まで段になって続く。

ススキが出ていた。まだ穂が開ききっていない。

時刻表

宿は、川のそばに一軒で建っていた。

帳場の横に、湯の時間の掲示があった。十五時から二十三時。六時から九時。それ以外は入れない、と書いてある。

湯は二つあった。片方は硫黄の匂いがして、指がぬるりとした。もう片方は、匂いが薄い。

露天から川が見えた。水の音が、湯の音より大きい。

画像はイメージです

子持ち鮎

夕食に、鮎が出た。子持ちだという。腹に卵が詰まっていて、箸を入れると、崩れずに割れた。

塩が強めだった。私はこれくらいがいい。妻は薄いほうがいいと言う。

部屋で、万年筆を出した。インクは青。同期の名前は、今回も書かなかった。

代わりに、鮎の腹の卵のことを書いた。三行。それだけ書いて、蓋をした。

自転車

朝、九時を少し過ぎてから、湯へ行った。閉まっていた。

押してみた。動かない。廊下を回って、もう一方の扉も押した。同じだった。

掲示は昨日読んだ。桶を抱えたまま部屋へ戻った。浴衣を脱いで、また同じ浴衣を着た。首の後ろが乾いていた。

帳場へ行った。人はいた。何時から開きますか、と聞いた。

十五時から、と言われた。掲示のとおりである。読んで、憶えていた。憶えていて、聞いた。

「玄関の横にも出しております」と言われた。読みました、と答えた。そのあとが続かない。相手は帳簿に目を戻した。私は桶を抱えたままで、抱えているのに気づいて、床に置いた。置く音が、思ったより大きかった。

玄関の脇に、貸自転車の札が出ていた。自転車は二台あった。一台は前かごに、折り畳んだ地図が入れたままになっている。畳み目が深い。私はもう一台を借りて、川沿いを少し走った。二キロも行っていない。

帰りのバスまで、時間があった。玄関の椅子で、時刻表を開いた。四国の頁に付箋が貼ってある。沖縄の頁から移したまま、次はまだ決めていない。丸の残った駅は、四つになった。

万年筆を出して、その頁の余白に、湯の時間を書いた。十五時から二十三時。六時から九時。

丸は鉛筆で付けてきた。インクは消えない。

閉じずに、膝の上に開いたままにしていた。バスが来るまで、そうしていた。

窪川の駅で、売店に柚子の皮の砂糖漬けがあった。頼まれていない。買った。

袋が思ったより大きくて、鞄に入らなかった。手に提げて、ホームまで歩いた。

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Field Notes

ホテル松葉川温泉

Overview

高知県
Region
高知県高岡郡四万十町(松葉川温泉)
Access
JR土讃線「窪川」駅から四万十交通バス「松葉川温泉」行きで約35分。送迎あり(7日前までに要相談。宿泊プラン・時間によっては出せない)。車は高知自動車道 四万十町中央ICから国道56号・県道19号経由で約25分
Price
予約サイトで確かめた一万円台半ば〜(1名1室・夕朝食付) 2名1室での実測一万円台前半〜(2名1室の1名分・夕朝食付) 公開の情報から中価格帯(夕朝食付2名1室で1名あたり税込一万円台前半〜。1名1室は夕朝食付一万円台半ば〜、朝食付一万円台前半〜、素泊まり一万円台前半〜)

Facility

Room
和室15室(8畳・10畳)と洋室ツイン4室(20㎡)の全19室
Meal
夕朝食付。四万十の食材を使った会席で、子持ち鮎・天然鮎・四万十鰻・四万十黒毛和牛など素材ごとにプランが分かれる。素泊まり・朝食付・夕食付も選べる

宿タイプ

  • 温泉旅館
  • 山間の宿
  • 渓谷の宿

向いている人間

  • 1泊2食で1万円台前半に収めたい一人客
  • 鉄道とローカルバスを乗り継いで山あいへ入ること自体に価値を見出す人
  • 泉質の異なる二種の源泉を一度に試したい人

向いていない人間

  • 深夜や午前中に湯へ入りたい人(大浴場は15:00〜23:00と6:00〜9:00のみで、9時から15時は開かない)
  • 石けんを使いたい人(じゃらんnetのアメニティ一覧では石けんが×。シャンプー・ボディソープはある)
  • 到着時刻を自由に決めたい人(バスは1系統で、送迎は7日前までの相談制)

予約前の注意事項

大浴場・露天の利用時間は15:00〜23:00と6:00〜9:00の二部制で、9時から15時のあいだは入れない。男女の時間交代はない。貸切風呂は条件付き。石けん・パジャマの備えはない。送迎は7日前までに要相談で、宿泊プラン・時間によっては出せない。天狗高原・梼原町方面から車で向かう場合は、カーナビの案内によらず国道197号から須崎経由を強く勧めると宿が明記している。

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