宿と小説の読みもの、余白
RECORD № 066

一本の時刻表

終わりのある仕事の豊かさ。毎日新しく終わること

定年のあと、一人で旅をしている。記録は万年筆で、誰にも読ませない速さで付ける。急がない。並ばない。名所を名所として見ない。終わりのある仕事は、毎日新しく終われた。

修一という語り手について →

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娘の段取り

娘から電話が来たのは、水曜の夜だった。

温泉に行かないか、という誘いである。誘われたのは、たぶん、初めてではない。ただ、行き先も宿も日取りも決まっている誘いは、初めてだった。私は行くとだけ答えた。答えてから手帳をひらいて、書くことが何もないのに気づいた。段取りは全部、娘の側にある。

翌朝、予約の画面が転送されてきた。宮城の、鎌先という湯だという。金額の欄を、私は二度読んだ。半分は出す、と返すと、誘ったのはこっちだから、と返ってきた。この言い方は妻に似ている。似ていることは、書かずにおく。

新幹線の切符だけは自分で買った。買う前に、時刻表を読んだ。読むのは好きで、長年、読むだけにしてきた。やまびこで白石蔵王まで、およそ一時間五十分。そこから先が、今回は決まっている。宿の送迎車が、十四時十五分に駅を出る。先に頼んでおく決まりだそうで、娘がもう頼んであった。行きは一日に、その一本きりだという。

一本しかない時刻表は、読むものではなく、覚えるものだった。

十四時十五分

白石蔵王の改札で、娘と落ち合った。娘の町からは在来線のほうが早いはずで、それでも新幹線の駅に回ってくれたのは、送迎車がこちらから出るからである。迷わなかったね、と娘が言った。私は昔から迷わない、と答えたが、考えてみれば、昔の私はそもそも来なかった。

改札の時計は十三時五十分だった。二十五分の余白がある。娘は売店で茶を二本買って、一本を寄越した。

送迎車には先客が二人いて、誰も喋らないまま、道は町を抜け、川を渡り、山へ入った。二十分。温泉街に入ると道は狭くなり、最後は急な坂を登って、一番奥で停まった。坂の上が宿だった。歩いて来られる道ではない。乗り遅れていたら、と考えかけて、やめた。間に合ったものの心配をするのは、退職してから覚えた悪い癖である。

帳場で、娘が名前を書いた。書かれる側に立つのは、久しぶりだった。

個室の夕食

夕食は部屋ではなく、渡り廊下の先の古い棟でとる仕組みだった。個室が並んでいて、その一つに二人分の膳が待っていた。品書きの表に、森の晩餐、とある。月替わりだそうである。娘は品書きを最初から最後まで読み、それから、私が読み終えるのを待った。待たれていることに、途中で気づいた。

画像はイメージです

隣の個室の札は裏返っていて、入口に男物の靴が一足だけ、揃えてあった。一人で来て、個室で食べる人がいる。いい仕組みだと思ったことは、娘には言わなかった。

会話は多くなかった。多くない会話が、個室では困らない。品が運ばれてくる間だけ話が途切れ、途切れたまま次の品が来て、それでよかった。娘がなぜ急に誘ったのかは、聞かずにいる。あと何回、という数え方を私はもうやめたのだが、娘は、始めたのかもしれなかった。聞けば答えるだろう。答えさせない方を、私は選んだ。

湯には夜と朝、一度ずつ入った。古い方の湯は階段を下りた先にある。薬湯と呼ばれているそうである。下りて、浸かって、上がってくると、膝が段の高さを覚えていた。

帰りの時刻表は二本ある

朝食も同じ個室だった。帰りの送迎は九時五十分と十時五十分の二本あるという。どっちにする、と娘が聞いた。

行きは一本で、帰りは二本ある。選ばせてもらえるのが帰りだけというのは、できた順序だと思う。選ぶことを一晩休んだ人間は、二択でも、ずいぶん選んだ気になれる。十時五十分、と私は答えた。理由は言わなかった。遅い方を選べば、この宿に一時間長くいられる。それだけのことである。

部屋に戻って、手帳をひらいた。万年筆のインクは青のまま。書いたのは三行である。一四一五。〇九五〇に横線。一〇五〇に丸。名前は、今回も書かなかった。書かない名前が一つあるのは変わらないまま、丸を付ける数字が一つ、増えただけである。

帰りの新幹線で、娘が窓の外を見たまま、また行こう、と言った。今度は私が段取りをする番だとは、言わずにおいた。代わりに鞄から時刻表を出して、娘の膝に置いた。読むだけでいい、と言うと、娘は笑って、受け取った。

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Field Notes

時音の宿 湯主一條

Overview

宮城県
Region
宮城県白石市(鎌先温泉)
Access
東京駅から東北新幹線やまびこで白石蔵王駅へ約1時間50分、宿の無料送迎車で約20分。送迎は予約制(公式は前日まで、一休の施設情報は3日前までと表記が割れる。3日前までに頼むのが確実)で、行きは白石蔵王駅14:15発の1便、帰りは宿発9:50と10:50の2便。仙台駅からはやまびこ約13分。在来線は東北本線白石駅から送迎約20分(白石蔵王駅とは離れている)
Price
予約サイトで確かめた三万円台後半〜(1名1室・夕朝食付) 2名1室での実測二万円台後半〜(2名1室の1名分・夕朝食付) 公開の情報から高価格帯(会席2食付・2名1室 税込五万円台半ば〜)

Facility

Room
全24室・全室禁煙(ベッド和室からスイートまで)
Meal
朝夕とも個室料亭「匠庵」。月ごとに変わる会席「森の晩餐」

宿タイプ

  • 温泉旅館
  • 老舗旅館

向いている人間

  • 親と二人で行き、食事の席だけ向き合いたい人
  • 段取りを同行者に任せ、決められた一便に乗るだけで着きたい人
  • 夕食を目当てに宿を選ぶ人

向いていない人間

  • 階段の少ない宿を探している人(木造の館内は階段が多い)
  • 到着・出発の時刻を自由に決めたい人(送迎は前日までの予約制・行き1便/帰り2便)
  • 駅から歩いて着きたい人(白石蔵王駅から送迎車約20分)

予約前の注意事項

送迎は予約制で、行きは白石蔵王駅14:15発の1便、帰りは9:50と10:50の2便(2026-08-25時点の公式時刻表)。締切は公式が前日まで、一休の施設情報が3日前までと表記が割れるため、3日前までに頼むのが確実。館内は階段が多い。一人分のプランはRelux・じゃらんnetで出る(実測)。二人なら一休.com・じゃらんnet・Reluxのいずれでも取れる。料金は変動する。

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