宿と小説の読みもの、余白
RECORD № 117

一部屋

終わりのある仕事の豊かさ。毎日新しく終わること

定年のあと、一人で旅をしている。記録は万年筆で、誰にも読ませない速さで付ける。急がない。並ばない。名所を名所として見ない。終わりのある仕事は、毎日新しく終われた。

修一という語り手について →

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一行

私は時刻表を読むのが好きで、従うのは好きではない。

読むというのは、選ぶことではない。並んでいるのを、端から端まで見ることだ。この便に乗ればここで乗り換えられる、と分かったところで、その便には乗らない。

予約の画面で、人数を一名にした。部屋の欄が、一行になった。二名のときには、十行あった。写真が十枚並んで、広さが書いてあって、値段が並んでいた。一名にすると、そのうちの一つだけが残る。

部屋の欄でも、同じことをするつもりでいた。端から見ようとして、端が無い。

それでも、取った。一行あれば、取れる。

湯が二つある、と書いてあった。部屋は一つしか選べないのに、湯は二つある。それで決めた。

十二月の二十日である。二十日にしたのは、年賀状を出し終えたあとだからだ。

年賀状は、去年と同じ枚数を買った。書きはじめて、二枚余った。余った理由は分かっている。余った二枚を、机の引き出しに入れた。引き出しは、開けるときに一度引っかかる。引っかかるのを、直していない。

身延線

新宿から甲府まで出て、そこで乗り換える。下部温泉まで、合わせて二時間二十分ほどだった。

甲府から先は、川に沿って南へ下る。線路は単線で、行き違いの駅で三分ほど停まった。向かいのホームに、上りの二両が入ってきて、それが出てから、こちらが出た。

画像はイメージです

三分のあいだ、私は窓の外を見ていた。ホームに人はいない。駅名の標識と、その下に、この駅を通る列車の時刻が書いてある。数えると、上りが九本、下りが八本だった。

十七本。一日に、十七回だけ、この場所に電車が来る。

下部温泉で降りた。降りたのは、私を入れて二人だった。

二つの湯

宿は松林のなかにあった。

帳場で、朝食は何時になさいますか、と聞かれた。七時からと、八時からがあるという。

どちらでも、と答えた。

上りが九本、下りが八本。行きの駅で数えた数は出てくる。七時か八時かは、出てこない。

「では、七時半でいかがでしょう」と言われて、帳面に書き込まれた。七時にも八時にも無い時刻だった。

庭のなかから湧いている湯と、離れたところから引いてきた湯。泉質が違うのだと、宿の紙にある。

湧いている湯のほうへ、先に行った。ぬるい。長く入っていられる。窓の外は木で、木の影が湯の面に落ちて、風が吹くと、影のほうだけが動いた。

画像はイメージです

引いてきた湯のほうは、熱かった。同じ宿の中で、これだけ違う。同じ湯だと思って入ると、体が驚く。

私は驚いてから、少し笑った。

引いてきた湯の脱衣籠に、脱いだものが一つ残っていた。畳んであるが、袖が一方だけ外に出ている。私が上がるまで、取りに来る人はいなかった。

夕食は膳だった。食べながら、娘のことを考えた。

先月、娘に誘われて、宮城の宿へ行った。行き先も日取りも、娘が決めていた。帰りの新幹線で、私は時刻表を娘の膝に置いた。読むだけでいい、と言った。娘は笑って、受け取った。

まだ返ってこない。

返してくれ、とは書いていない。書かないほうを選んでいる、というほど強い気持ちでもない。ただ、書いていない。

部屋へ戻って、時刻表を出そうとした。鞄の中を探して、無いのを思い出した。娘のところにある。それでも、もう一度探した。二度目も無かった。

番号

朝、湧いているほうの湯にもう一度入った。

十時に部屋を出た。鍵を返すとき、部屋の番号を見た。三桁の数字である。

帳場を出て、玄関で靴を履きながら、私は手帳を出した。万年筆のインクは、青のままにしてある。

書いたのは、その三桁だけだった。

一人で取れる部屋は、この宿にはこれ一つしかない。次に来るとしても、選ぶことはできない。

書かない名前が、私の手帳には一つある。一度も書いていない。書く番号ができたのは、久しぶりだった。

十七本

帰りの駅で、時刻表の標識をもう一度見た。

行きに数えたときと、同じ十七本である。当たり前だが、確かめた。

上りの列車が来るまで、十九分あった。ベンチに座って、待った。待つのは、苦にならない。

若い人が一人、同じベンチの端に座った。荷物が大きい。私は見ていたが、声はかけなかった。

列車が来て、二人とも乗った。車両の中は空いていて、私たちは別々の窓側に座った。

川が、行きと反対の側に見えていた。

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Field Notes

下部ホテル

Overview

山梨県
Region
山梨県南巨摩郡身延町(下部温泉郷)
Access
新宿駅から甲府駅を経て下部温泉駅まで電車で約140分。高速バスならバスタ新宿から飯富バス停を経て約180分。名古屋方面からは静岡駅経由で約160分。車は中央自動車道・甲府南ICから約140分(新宿から)。駐車場は約100台で宿泊者は無料
Price
予約サイトで確かめた一万円台後半〜(1名1室・条件不明) 公開の情報から中価格帯(Reluxの1名1室で一万円台後半〜。もう一つのプランは二万円台前半)

Facility

Room
大人1名・1室の検索で表示される部屋は1件だけ(2名の検索では10件)。一人で取れる部屋は一つに限られる
Meal
食事の付くプランがある。予約の段階で選ぶ

宿タイプ

  • 温泉旅館
  • 老舗宿

向いている人間

  • 一人で予約したい人(大人1名・1室の検索でも部屋とプランが表示される)
  • 選べる部屋が少なくても一人で取れることを優先する人
  • 泉質の異なる二種類の湯を使い分けたい人

向いていない人間

  • 部屋を選びたい一人客(1名で表示される部屋は1件のみ。2名なら10件)
  • 食事や部屋の組み合わせを比べたい人(1名で出るプランは2件)
  • 移動を短くしたい人(新宿から約140分)

予約前の注意事項

大人1名・1室で表示される部屋は1件、プランは2件だけ(2名なら部屋10件・プラン4件)。一人で取れることは取れるが、選ぶ余地はほとんど無い。日程によっては、その1件が埋まっていると一人では取れなくなる。料金と食事条件はプランで分かれるので、予約の段階で確かめること。

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