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三日前
九月の第一週は、うちの宿の閑散期にあたります。支配人から、休みを続けて取るようにと言われました。三年ぶりです。続けて休むと、初日は落ち着きません。朝の五時に目が覚めて、天井を見ておりました。お着きの時刻を数えている自分に気づいて、やめました。
同業の宿に泊まってみようと思ったのは、その二日目の朝でございます。宮城の、鎌先という温泉に、良いお宿があると聞いておりました。お客様のお一人が、あちらにも行かれたと話してくださったことがございます。褒めておいででした。褒め方が具体的でしたので、覚えておりました。
予約の画面を開きますと、送迎について、三日前までにお申しつけください、と書いてございました。三日前まで。私は毎日、その言葉を申し上げる側におります。お車の手配は前日までに、お献立の変更は三日前までに。申し上げる側から、申しつける側へ回るのは、思っていたより難しいことでございました。
電話をいたしました。名乗って、日にちを申し上げて、送迎をお願いしますと申しました。先方の方は、承りました、とおっしゃいました。承る、という言葉を、外から受け取ったのは久しぶりでございます。承る側に長くおりますと、申しつける側の声の出し方が、分からなくなるものでございました。
お着き
白石蔵王の駅で、お迎えの車を待ちました。十五分ほどで着くと伺っておりました。運転手の方が、お荷物を、と手を出されました。私は反射で、いえ結構です、と申しました。申してから、これはよくない、と思いました。お客様が同じことをなさったとき、私はどう受けるでしょうか。もう一度、お伺いする。それが正しい。
その方は、もう一度お伺いになりました。私は、お預けいたしました。車の中で、その手順の良さについて考えておりました。考えないようにしようと思って、参ったはずでございました。

個室の料亭
お宿は、廊下の艶がよろしゅうございました。艶は、拭き方ではなく、拭いた年月で出ます。うちの宿にも同じ艶の廊下がございますが、場所によって差がございます。ここは、差がございませんでした。
別棟へ渡る途中、お連れのない男のお客様が、隅の椅子で黒い手帳に何か書いておいででした。書いては、少し手を止めて、また書かれます。私はつい、その手の運びと、頁をめくる間を見ておりました。お客様のご事情は、見ないのが私どもの仕事でございます。それが、休みの日にも抜けません。
お食事は、別棟の個室でいただきました。登録有形文化財の建物の中だと伺いました。一室に、私ひとりでございます。お運びの方が、お品ごとに説明をなさいます。私は伺いながら、その方の膝の付き方と、盆の置き方を見ておりました。見ないようにしようと思って、参ったはずでございました。
途中で、その方が一度だけ、お仕事は何をなさっているのですか、とお尋ねになりました。私は、事務のようなものです、と申しました。嘘ではございません。帳場の仕事も事務でございます。その方は、そうですか、とおっしゃって、それ以上はお尋ねになりませんでした。尋ねない、というのは、教わってできることではございません。
二時の湯
お湯は二十四時間、入れるとのことでした。夜中の二時に、目が覚めました。貸切のお風呂が空いておりましたので、札を返して入りました。源泉のかけ流しだそうでございます。大浴場も同じと伺いました。湯加減は、私には少し熱うございました。熱いのは、嫌いではありません。窓の外は真っ暗で、何も見えません。見えないので、湯の面ばかり見ておりました。
うちの宿では、夜中のこの時間、私は眠っております。翌朝のお発ちの支度がございますから。いま、この宿のどなたかが、明日の朝の支度をなさっているはずです。その方の段取りを、私は知っております。知っているのに、私はここで湯に浸かっております。申し訳ないとは、思いませんでした。思わなかったことに、少し驚きました。

お発ち
朝、十一時にお発ちいたしました。玄関で、お運びの方が見送ってくださいました。車が角を曲がるまで、頭を下げておいででした。私も、いつもそういたしております。角を曲がってから、私は座席で、少し姿勢を崩しました。崩してよいのだ、と思いました。
白石蔵王の駅で、新幹線を待ちながら、手帳に一行だけ書きました。盆の置き方。三日前までに、の言い方。書いてから、これは仕事の話だ、と気づきました。気づきましたが、消しませんでした。休みのあいだに、いちばん書きたかったことが、仕事のことだった——それが分かっただけで、この一泊は、じゅうぶんでございました。
