宿と小説の読みもの、余白
RECORD № 017

三日前までに、お申しつけください

客を情報ではなく、顔で記憶する技術

五ヶ月前に一度お泊まりになった方の顔は、憶えている。前と何が違うかも、だいたい言える。記録は見ない。宿には宿の合理があって、それは都会のものとは別の原理で回っている。

千鶴という語り手について →

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三日前

九月の第一週は、うちの宿の閑散期にあたります。支配人から、休みを続けて取るようにと言われました。三年ぶりです。続けて休むと、初日は落ち着きません。朝の五時に目が覚めて、天井を見ておりました。お着きの時刻を数えている自分に気づいて、やめました。

同業の宿に泊まってみようと思ったのは、その二日目の朝でございます。宮城の、鎌先という温泉に、良いお宿があると聞いておりました。お客様のお一人が、あちらにも行かれたと話してくださったことがございます。褒めておいででした。褒め方が具体的でしたので、覚えておりました。

予約の画面を開きますと、送迎について、三日前までにお申しつけください、と書いてございました。三日前まで。私は毎日、その言葉を申し上げる側におります。お車の手配は前日までに、お献立の変更は三日前までに。申し上げる側から、申しつける側へ回るのは、思っていたより難しいことでございました。

電話をいたしました。名乗って、日にちを申し上げて、送迎をお願いしますと申しました。先方の方は、承りました、とおっしゃいました。承る、という言葉を、外から受け取ったのは久しぶりでございます。承る側に長くおりますと、申しつける側の声の出し方が、分からなくなるものでございました。

お着き

白石蔵王の駅で、お迎えの車を待ちました。二十分ほどで着くと伺っておりました。運転手の方が、お荷物を、と手を出されました。私は反射で、いえ結構です、と申しました。申してから、これはよくない、と思いました。お客様が同じことをなさったとき、私はどう受けるでしょうか。もう一度、お伺いする。それが正しい。

その方は、もう一度お伺いになりました。私は、お預けいたしました。車の中で、その手順の良さについて考えておりました。考えないようにしようと思って、参ったはずでございました。

画像はイメージです

個室の料亭

お宿は、廊下の艶がよろしゅうございました。艶は、拭き方ではなく、拭いた年月で出ます。うちの宿にも同じ艶の廊下がございますが、場所によって差がございます。ここは、差がございませんでした。

別棟へ渡る途中、お連れのない男のお客様が、隅の椅子で黒い手帳に何か書いておいででした。書いては、少し手を止めて、また書かれます。私はつい、その手の運びと、頁をめくる間を見ておりました。お客様のご事情は、見ないのが私どもの仕事でございます。それが、休みの日にも抜けません。

お食事は、別棟の個室でいただきました。登録有形文化財の建物の中だと伺いました。一室に、私ひとりでございます。お運びの方が、お品ごとに説明をなさいます。私は伺いながら、その方の膝の付き方と、盆の置き方を見ておりました。見ないようにしようと思って、参ったはずでございました。

途中で、その方が一度だけ、お仕事は何をなさっているのですか、とお尋ねになりました。私は、事務のようなものです、と申しました。嘘ではございません。帳場の仕事も事務でございます。その方は、そうですか、とおっしゃって、それ以上はお尋ねになりませんでした。尋ねない、というのは、教わってできることではございません。

二時の湯

お湯は二十四時間、入れるとのことでした。夜中の二時に、目が覚めました。貸切のお風呂が空いておりましたので、札を返して入りました。源泉のかけ流しだそうでございます。大浴場も同じと伺いました。湯加減は、私には少し熱うございました。熱いのは、嫌いではありません。窓の外は真っ暗で、何も見えません。見えないので、湯の面ばかり見ておりました。

うちの宿では、夜中のこの時間、私は眠っております。翌朝のお発ちの支度がございますから。いま、この宿のどなたかが、明日の朝の支度をなさっているはずです。その方の段取りを、私は知っております。知っているのに、私はここで湯に浸かっております。申し訳ないとは、思いませんでした。思わなかったことに、少し驚きました。

画像はイメージです

お発ち

朝、十一時にお発ちいたしました。玄関で、お運びの方が見送ってくださいました。車が角を曲がるまで、頭を下げておいででした。私も、いつもそういたしております。角を曲がってから、私は座席で、少し姿勢を崩しました。崩してよいのだ、と思いました。

白石蔵王の駅で、新幹線を待ちながら、手帳に一行だけ書きました。盆の置き方。三日前までに、の言い方。書いてから、これは仕事の話だ、と気づきました。気づきましたが、消しませんでした。休みのあいだに、いちばん書きたかったことが、仕事のことだった——それが分かっただけで、この一泊は、じゅうぶんでございました。

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Field Notes

時音の宿 湯主一條

Overview

宮城県
Region
宮城県白石市福岡蔵本(鎌先温泉)
Access
東北新幹線の白石蔵王駅から無料送迎車で約20分(タクシーなら約15分)。送迎は予約制で、公式は前日まで、一休の施設情報は3日前までと表記が割れる(3日前までに頼むのが確実)。行きは白石蔵王駅14:15発の1便、帰りは宿発9:50と10:50の2便(公式アクセス頁・2026-08-27実測)
Price
予約サイトで確かめた三万円台後半〜(1名1室・夕朝食付) 2名1室での実測二万円台後半〜(2名1室の1名分・夕朝食付) 公開の情報から中〜高価格帯(夕朝食付2名税込 五万円台半ば〜)

Facility

Room
全24室。和室 / 和洋室(禁煙)/ 露天風呂付客室
Meal
登録有形文化財の建物内にある個室料亭での会席料理

宿タイプ

  • 温泉旅館
  • 文化財の宿
  • 部屋食の宿
  • 貸切風呂の宿
  • 露天風呂付き客室

向いている人間

  • 食事の席を他の客と共にしたくない人
  • 登録有形文化財の建物のなかで食事をしたい人
  • 源泉かけ流しの湯を深夜や早朝に使いたい人(24時間)
  • 事前に段取りを決めて動くことを苦にしない人

向いていない人間

  • 当日に思い立って向かいたい人(送迎は予約制で、行きは14:15発の1便)
  • 18時までにチェックインできない人
  • 露天風呂も源泉そのままを求める人(露天は加温)

予約前の注意事項

チェックインは15:00〜18:00、チェックアウトは11:00。白石蔵王駅からの無料送迎車は約20分で、予約制(公式は前日まで、一休の施設情報は3日前まで。3日前までに頼むのが確実)。行きは14:15発の1便しかなく、直前の手配ができない。タクシーなら約15分。露天風呂は加温(大浴場・貸切風呂は源泉かけ流し)。一人泊の可否は明記がないため予約前に確認が必要。料金は変動する。

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