宿と小説の読みもの、余白
RECORD № 018

本館は、坂の下にある

終わりのある仕事の豊かさ。毎日新しく終わること

定年のあと、一人で旅をしている。記録は万年筆で、誰にも読ませない速さで付ける。急がない。並ばない。名所を名所として見ない。終わりのある仕事は、毎日新しく終われた。

修一という語り手について →

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一周忌

九月の第二週に、一周忌があった。同期だった。入社の年から数えて、四十二年の付き合いになる。会場で、私は十七人と挨拶をした。数えたわけではない。あとで思い返すと、十七人だった。そのうちの三人が、体の話をした。二人が、次はどちらが先かという冗談を言った。冗談の形をしていた。私は笑った。笑ってから、外に出て、しばらく立っていた。

帰りの電車で、時刻表を開いた。持ち歩いている。読むのが好きなだけで、従ったことはない。従わないから好きなのかもしれない。四国の頁を開いた。松山まで行ったことがない。四十二年勤めて、出張は北と東ばかりだった。西は、名古屋で止まっていた。

翌週の火曜に、宿を取った。道後の、昭和十二年創業という宿だった。昭和十二年。私の父が生まれた年の、二年後になる。

市内電車

松山までは、行き方が幾通りかあった。私は、時間のかかるほうを選んだ。理由は、急ぐ用がないからである。用がないことを理由にできるようになったのは、この四年のことだ。

松山駅から、市内電車に乗った。二十五分ほどと聞いた。車内は、学生が多かった。制服の色が、私の知っている色とは違う。当然だ。四十年経っている。窓の外に、路面の線路が続いていた。線路が道路の中を通っているのを、久しぶりに見た。

道後温泉駅で降りた。駅舎が古い形をしている。復元だと後で知った。そこから、坂を上がった。五分もかからない。かからないが、荷物があると、少し息が上がった。上がった息を、駅の方角を振り返って整えた。

画像はイメージです

部屋

十九室だと聞いた。通された部屋には、窓が二方向にあった。片方から、屋根が見えた。下のほうに、湯の街の屋根が並んでいる。本館は、坂の下にある。道後温泉本館というのが、あの有名な建物である。歩いて行ける。行こうと思った。思って、荷を解いて、茶を淹れて、座った。座ったら、立たなくなった。

夕食は部屋に来た。運んでこられた方が、お品書きを読み上げてくださった。読み上げの速さが、ちょうどよかった。速すぎると聞き取れず、遅すぎると気詰まりになる。食べ終えるまでに、二度、外を見た。一度目は明るく、二度目は暗かった。そのあいだのことを、私はよく覚えていない。覚えていないほうがいい時間というものが、ある。

画像はイメージです

大浴場へ行った。アルカリ性単純温泉だという。癖のない湯である。湯の中で、足の指を広げてみた。左の親指の付け根が、少し硬い。去年からだ。痛くはない。硬いだけだ。医者に行くほどではないと自分で決めて、そのままにしてある。決めたのは去年の秋で、まだ変えていない。

脱衣所に、私のほかにひとり、身支度をしている男がいた。畳んだ上着の上に、黒い手帳が置いてある。旅先でも、仕事を離さない人なのだろう。私にも、そういう時期があった。長いあいだ、あった。

湯から上がって、廊下を戻った。途中の窓から、外が見えた。坂の下の街の灯りが、思っていたより少なかった。九時を過ぎていた。九時を過ぎると、温泉街も静かになるのだと思った。

翌朝、十時に発った。本館へは、結局行かなかった。惜しいとは、思わなかった。坂を下りながら、そのことを考えた。現役のころなら、行っただろう。せっかく来たのだから、と。せっかく、という言葉は、費用の言葉である。かけた金と時間に、見合うものを回収する。回収しなくてよくなったのは、いつからか。坂を下りずに済ませた日が、旅のうちに一日あってもいい。

道後温泉駅で、市内電車を待った。ベンチに、若い男が座っていた。膝の上に鞄を抱えて、うつむいている。顔色が悪かった。声はかけなかった。かけない、と決めているわけではない。ただ、かけたことがない。電車が来た。男が先に乗った。私も乗った。

松山駅で、私は改札を出て、時刻表を開いた。次の行き先は、決めなかった。決めずに、四国の頁だけ、しばらく読んでいた。従うためではなく、読むために。

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Field Notes

大和屋別荘

Overview

愛媛県
Region
愛媛県松山市道後鷺谷町(道後温泉)
Access
道後温泉駅より徒歩5分以内。JR松山駅より市内電車約25分。松山空港より車で約40分。松山ICより車で30分
Price
予約サイトで確かめた五万円台前半〜(1名1室・夕朝食付) 2名1室での実測三万円台後半〜(2名1室の1名分・夕朝食付) 公開の情報から中価格帯(2名税込 素泊三万円台後半〜、朝食付四万円台半ば〜。じゃらんの夕朝食付2名1室では1名あたり三万円台後半〜・2026-09-05 実測)

Facility

Room
全19室。和室(スーペリア / デラックス / ジュニアスイート)。露天風呂付客室、温泉内風呂付客室あり
Meal
部屋食

宿タイプ

  • 温泉旅館
  • 老舗宿
  • 部屋食の宿
  • 露天風呂付き客室

向いている人間

  • 食事の席を他の客と共にしたくない人
  • 道後温泉本館まで歩ける距離で、宿は静かに過ごしたい人
  • 露天風呂付きまたは温泉内風呂付きの客室を選びたい人
  • 昭和12年創業の宿に泊まりたい人

向いていない人間

  • 山中や渓谷の一軒宿を求める人(道後温泉の市街地にある)
  • 源泉かけ流しであることを条件にする人(記載がなく未確認)
  • 10時より遅くチェックアウトしたい人(プランにより10:00の場合がある)

予約前の注意事項

チェックインは15:00〜20:30、チェックアウトは10:00〜11:00で、いずれもプランにより異なる。源泉かけ流しかどうかは記載がないため、こだわる場合は宿へ確認を。一人泊の可否も明記がないため予約前に確認が必要。料金は変動する。

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