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理由
妻を旅に誘うのに、理由を考えている自分に気づいた。理由なしで誘えばいいと、頭では分かっている。分かっていて、考えた。
売却してから二年八か月になる。予定という予定がない。予定がないことを理由にして誘うのは、それはそれで理由になっていない気がした。
結局、理由は言わなかった。愛媛の、道後温泉の宿を見せて、ここにする、とだけ言った。妻は、いいね、と言った。いいね、の中身を、僕は聞かなかった。
出ない
チェックインの手続きのあいだ、ロビーの隅の椅子に、客が一人座っていた。荷物を膝に乗せたまま、動かなかった。誰かを待っているようにも、待つのをやめたようにも見えた。
部屋に露天風呂が付いていると知って、これなら大浴場の時間を気にしなくていい、と思った。時間を気にしなくていい、というのも、結局は時間の計算だった。
道後温泉本館までは歩いてすぐだと聞いていた。行くかと妻に聞くと、行かなくてもいい、と言った。行かなくてもいい、という答えに、僕はもう一度、行くか、と聞きそうになった。聞かなかった。

測る対象のない時間
夕食は部屋に来た。伊予牛のステーキが出た。妻が、おいしい、と言った。おいしい、以外の言葉を、妻は付け加えなかった。付け加えないことの意味を、僕はしばらく考えた。答えは出なかった。
湯に、二人で入った。露天で、屋根が付いている。何も測るものがない時間だった。心拍も、歩数も、睡眠のスコアも、ここにはない。測る対象のない時間を、僕は持て余した。持て余す、という感覚に名前をつけようとして、やめた。
妻が、湯の中で目を閉じていた。何を考えているのか、僕には分からなかった。分からないことを、今日は聞かなかった。
開かなかった
横になって、携帯を枕元に置いた。手が、いつもの位置へ動きかけた。アプリを開いて、今日の記録を見る位置である。
開かなかった。開かなかった理由を、うまく言えない。眠っている妻の息の音が、規則正しく聞こえていた。規則正しい、と思ったところで、それも計測の言葉だと気づいた。気づいて、やめた。
翌朝、湯にもう一度入ってから発った。妻が、また来る、と言った。また、がいつかは、二人とも決めなかった。決めなかったことを、僕は今日は数えなかった。
