宿と小説の読みもの、余白
第 28 話

茶色い湯の、名の由来

客を情報ではなく、顔で記憶する技術

会津の温泉宿に勤めている。続けての休みが出た日に、よその宿へ客として泊まりに行く。

千鶴の一晩は、これで3話目。 前の一晩は『三日前までに、お申しつけください』、時音の宿 湯主一條(宮城県白石市)。

千鶴という語り手について →

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お発ちの見送り

七月の末に、うちの宿から一人お辞めになった。十六年おいでの方でございました。私より三つ下で、入られたのは私の四年あとです。お辞めになる理由は、伺いました。伺いましたが、ここには書きません。

最後の日、その方はいつも通りにお発ちのお見送りをなさって、いつも通りに帳場を片付けて、それからお帰りになりました。いつも通りでないところが、ひとつだけございました。引き継ぎのノートを、置いていかれたのです。

私どもは、そういうものを普通は作りません。手順は体で覚えるものだからです。文字にすると、必ず抜けが出ます。その方は、作られました。三十七ページございました。お部屋ごとに、どのお客様が何をお好みか。何号室の窓は開けにくいこと。どの廊下がいちばん先に冷えること。

私は、二日かけて読みました。読んで、この方は辞めるつもりで書いたのではないな、と思いました。続けるつもりで書いて、それから辞めることになった。順序は、そちらだと思います。

八月の第二週、休みを二日いただいて、有馬へ参ることにいたしました。

金泉

有馬には、二種類の湯がございます。鉄分を含んで茶色く見えるものを「金泉」、無色透明のものを「銀泉」と呼ぶそうです。私が参ったお宿は、金泉のお宿でございました。鎌倉時代に「湯口屋」という名で創業なさったと、公式の記載にございます。有馬でいちばん古いお宿だとも。

いちばん古い、という言い方を、私は普段あまり信じません。数え方によって変わりますから。ただ、鎌倉時代と書いてある以上、私どもの宿より長いことは確かでございます。うちは、百八十年ほどでございます。

半混浴

大浴場は、半混浴の半露天だと伺いました。半混浴。聞いたときに、少し身構えました。身構えたことを、あとで考えました。うちの宿には混浴はございません。ですから、私はそれを「よその流儀」として見ております。見ておりますが、良し悪しを申す立場にはございません。貸切のお風呂は、宿の中にはございませんでした。泉源の近くに一つあって、別にお代がかかり、予約のときに申し込むものだと伺いました。前もって頼んでおきましたので、夕方のうちに行って参りました。

画像はイメージです

湯は、茶色でございました。濁っているのではなく、茶色く透けております。手を沈めますと、指の先が見えなくなる深さがございました。湯に入りますと、体が浮きにくうございます。塩分が濃いのだと思います。しばらく浸かっておりますと、腕に何かが付いておりました。湯の成分でございました。乾くと、細かい粉のようになります。

拭く人

湯から上がって、脱衣所の鏡を見ました。首のところに、茶色い線が一本ついております。拭きましたら、取れました。取れましたが、その跡が、置いてあった白いタオルに移りました。私は、それをしばらく見ておりました。

色のついた湯は、跡が残ります。首の線も、白いタオルの色移りも。浴室の床、脱衣所の籠、廊下の足跡——金泉のお宿では、それを毎日どなたかが、拭いて、掬って、消しておいでなのだと思いました。うちの湯は無色でございますから、その手間はございません。代わりに、湯の花が沈みます。沈んだものを、朝、掬います。どの宿にも、その宿の落とすものが、ございます。

お部屋の膳

画像はイメージです

夕食は、お部屋に運ばれてまいりました。運んでこられた方の、盆の持ち方を見ておりました。見てしまうのは、もう仕方がございません。その方は、若い方でございました。二十代の半ばくらいでしょうか。お品の説明を、一つも飛ばさずに、順になさいました。

私も、最初の年はそうでございました。間違えないようにしていると、声が先へ急ぎます。急いでいたことに、あとで気づく。十六年おいでだったあの方は、もう急いではおられませんでした。いつからそうなったのか、私は知りません。そばで見ておりましたのに、変わった日を、私は覚えておりません。

三十八ページ目

朝は、大浴場へ参りました。身構えた、あのお風呂でございます。入ってみますと、どなたもおいでになりませんでした。朝の金泉は、夜より色が濃く見えました。光の入り方だと思います。

十時にお発ちいたしました。有馬の駅まで、歩いて参りました。十分とかからない道でございます。途中の道が細く、両側にお店がございました。まだ開いていないお店が多うございました。その一軒の軒先で、旅装の男の方が、黒い手帳に何か書いておいででした。見るともなく、その手の動きを見ました。書いては止まり、また書く。私が毎日する手の動きとは違いますが、何かを書き留めておこうとする手つきは、少し、あの方のノートに似ておりました。

新幹線の座席で、鞄から手帳を出しました。出して、開かずに、膝の上に置いておきました。会津に戻りましたら、あのノートの続きを、私が書くことになるのだと思います。三十七ページの、三十八ページ目から。書けるかどうかは、まだ分かりません。分かりませんが、白いタオルに移った跡のように、書いておかないと消えてしまうものが、確かにあるのだと、いまは思います。

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Field Notes

陶泉 御所坊

Overview

兵庫県
Region
兵庫県神戸市北区有馬町(有馬温泉)
Access
有馬温泉駅から徒歩10分以内。駅から無料送迎あり
Price
予約サイトで確かめた六万円台前半〜(1名1室・夕朝食付) 2名1室での実測三万円台後半〜(2名1室の1名分・夕朝食付) 公開の情報から中価格帯(2名税込 素泊三万円台後半〜、朝食付四万円台半ば〜)

Facility

Room
全17室。和室 / 和洋室(地久スタンダード和室、地久スタンダード和室ツイン、中庸デラックス和室ツインなど)
Meal
プランにより部屋食または食事処(公式は部屋食のプランを別に出している。部屋によっては部屋食ができない。2026-10-18実測)

宿タイプ

  • 温泉旅館
  • 老舗宿

向いている人間

  • 有馬の金泉に源泉かけ流しで入りたい人(公式は「当坊は、金泉の源泉掛け流しの宿です。」と書いている)
  • 食事を部屋で取りたい人(部屋食のプランを選ぶこと。部屋によってはできない)
  • 駅から歩ける距離の温泉街の宿を求める人

向いていない人間

  • 大浴場で男女別の湯を求める人(公式は「半露天・半混浴の贅」「お顔が見える半混浴で」と書いている)
  • 館内の無料の貸切風呂を当てにして行く人(公式の貸切は館内でなく御所泉源の近くの別施設で、宿泊客でも60分5,500円・90分7,700円の有料・要予約)
  • 18時までにチェックインできない人
  • 10時より遅くチェックアウトしたい人
  • 山中の一軒宿を求める人

予約前の注意事項

大浴場は半混浴・半露天である(公式「半露天・半混浴の贅」)。湯を人と共にしたくないなら、貸切風呂が館内に無いことを先に知っておくこと。公式の貸切は「露天風呂 湯屋 松風」の1つで、御所泉源の近くにあり、宿泊の客でも60分5,500円・90分7,700円、「ご予約時、オプションをお申し込みください」と書かれた有料・要予約の施設である。利用できるのは15:00〜24:00で、朝は宿泊客の枠が無い。4名まで。泉質は公式が「含鉄-ナトリウム-塩化物強塩温泉」「湧出口泉温/95℃」(記事の帯には出していない)「源泉/御所泉源及び妬泉源の混合(源泉掛け流し)」と書いている(2026-10-18実測)。食事は部屋食のプランと食事処のプランに分かれ、部屋によっては部屋食ができない。チェックアウトは10:00。一人泊の可否は明記がないため予約前に確認が必要。料金は変動する。

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