本記事はアフィリエイト広告(一休.com)を利用しています。
選評
十一月に、選評が出た。四回目の二次通過について、当然だが、言及はない。最終候補の五編について、選考委員が四人、それぞれ書いている。合わせて八ページ。僕はその八ページを、三回読んだ。三回目には、自分が何を探して読んでいるのか、分からなくなっていた。
分からないまま、一箇所だけ付箋を貼った。ある委員が、受賞作でない一編について、こう書いていた。——この書き手は、来年も応募してくるだろう。それが何よりの資質である。
来年も応募してくること。資質。僕はその行を三度読んで、腹が立った。理由ははっきりしている。僕はそれを、資質だなんて思っていない。では何だと思っているのか——続けているのは、と、ノートに書きかけて、その先を見なかった。見るのが怖かった、と書くと、それらしすぎる。ただ、見なかった。
その晩、宿を探した。群馬の四万という温泉に、元禄七年創業の宿があった。元禄七年。一六九四年。三百年以上。送迎はなく、中之条という駅からバスで四十分だと書いてある。本数は、多くない。
四十分
電車を乗り継いで中之条に着くと、バスは駅前から出ていた。乗ったのは僕を含めて四人。谷を遡るにつれて道が細くなり、川が近くなる。六月の初めで、川の水が多い。窓を少し開けると、土と葉と水の匂いのする、湿った空気が入ってきた。前の席で年配の女性が二人、ずっと話している。何を話しているかは聞き取れない。聞き取れないまま、僕はその声のリズムだけを聞いていた。

四十分は長い。長いが、書くことがないわけではない。ノートを出せばいい。出さなかった。出さなかった理由は、あとで考えることにした。考えるのをあとに回す癖が、僕にはある。たぶん、書くことについても。
元禄七年
宿は谷の底にあった。棟がいくつかあって、僕が泊まるのは高いところの棟だという。歩いて上がる途中、下の棟が見えた。木造の、古い建物だ。山荘と呼ばれるそれが国の登録文化財で、桃山様式を用いている、と説明にあった。桃山様式が何かを、僕は知らない。知らないまま、その建物をしばらく見ていた。
元禄七年から、ここは宿だった。三百年のあいだに、何度も建て直しただろう。焼けたかもしれない。継いだ人が、継ぎたくなかった年もあっただろう。それでも、去年も営業していた。今年も営業している。一年ずつ、三百回。数えて、少し呆然とした。僕は四年で四回応募した。四回だ。
八つ
湯が八つあると聞いた。大浴場が四つ、露天が二つ、貸切が二つ、すべて源泉のかけ流しだという。八つ全部に入ろうと思った。四つ目を出たところで、思い出した——今日はまだ一行も書いていない。制度上、僕はここにいてはいけない。旅先の初日は適用外、という版が確かあった。あったが、使わなかった。いけないまま五つ目に入り、五つで満足した。満足した、というより、体が温まりすぎた。
五つ目を出て、廊下の椅子に座った。汗が引くのを待つあいだ、窓から谷が見えた。対岸の斜面に、木が生えている。生えているというより、立っている。あの木は、何年立っているのか。分からない。分からないが、僕より長いことは確かだ。僕は、あと何年書くのか——と考えて、その問いの立て方が間違っていることに、座ったまま気づいた。あと何年、ではない。一年ずつだ。一年ずつ、三百回。
会場の食事
夕食は会場だった。個室になるプランもあるらしいが、僕が取ったのは会場のほう——安いほうを選んだ結果である。広い部屋に席が離して置かれ、隣までは少し遠い。話し声は聞こえるが、内容までは分からない。聞こえるが分からない、というその距離が、僕にはちょうどよかった。
離れた席に、ひとりで食べている男がいた。品書きの脇に黒い手帳を開いて、料理が来るまでの間に何か書いては、箸に戻る。書く、食べる、また書く。その順番に、迷いがない。僕はつい、自分のノートの、書きかけては閉じた頁のことを思った。同じ手帳でも、人によってこうも違う。
食べながら、選評の一行を思い出した。来年も応募してくるだろう。それが何よりの資質である。腹が立った、あの行を。いまは、腹が立たなかった。立たないことを、僕は自分の変化とは呼ばない。呼ぶには、まだ早い。
一行
翌朝、六つ目の湯に入った。朝の湯は空いていて、誰もいない。湯口から落ちる音が湯面で割れて、割れた粒が湯気ごと持ち上がって、上がりきったところでほどけて、またおなじ高さから落ちてくる——元禄七年から、誰が聴いていてもいなくてもこの谷で鳴りつづけてきた音の、いちばん新しい今日ぶんを、いま僕がひとりで——と組み立てて、湯の中で恥ずかしくなった。聴いているのではない。浸かっているだけだ。湯の音だけがあった。

十一時に発った。バスの時刻が十一時十二分だったので、玄関で八分、宿の建物を見上げて待った。バスに乗って谷を下り、中之条の駅で、電車まで二十分あった。
ホームのベンチで、ノートを出した。一行、書いた。書いてから、消さなかった。
