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引き継ぎノート
引き継ぎノートを受け取ってから、四か月が経った。三十七ページ。数えたわけではないが、頭に入っている。
後輩に見せるとき、私はいつも同じページから開く。お着きの時間、お献立の変わり目、湯加減の癖。前任者の字は右上がりで、几帳面すぎるほど几帳面だった。読めば読むほど、その通りにやりたくなる。その通りにやれば、間違えない。
先週、後輩が私の所作を真似て、繕い物の糸を私と同じ長さに切った。理由を聞いたら、ノートにそう書いてあったからだと言った。ノートに、そんなことは書いていない。私がいつもそうしているのを見て、それも「決まり」だと思ったらしい。
決まりではない。癖だ。そう言い直そうとして、言わなかった。言わなくても困らないから、言わなかっただけだ。
休みの日、新潟に将棋のタイトル戦が行われる宿があるという記事を見た。江戸時代の庄屋屋敷を本館に使っている、二百八十年の宿だという。二百八十年のあいだ、代替わりが何度もあっただろう。うちの三十七ページとは、桁が違う。
その宿が、代替わりのたびに何を渡してきたのか、見てみたくなった。
岩室
新潟駅で、在来線に乗り換えた。越後線。発車の五分前にホームに着くよう、自分の足で歩幅を計算する。長年の癖だ。客の到着時刻から逆算する仕事をしていると、自分の移動も逆算してしまう。
車内で、時刻表を指でなぞっている男がいた。次の一本を選ばず、その次を待っているように見えた。急いでいない乗り方だった。急いでいない客を、私は仕事でもよく見る。急いでいる客より、覚えている。
岩室で降りた。無人駅だった。タクシーの呼び出し番号が壁に貼ってある。八分待った。八分は長い方だと思ったが、口には出さなかった。客としても、その癖は抜けない。

黒湯
門をくぐって、まず庭を見た。手入れの跡が、切り口の角度でわかる。剪定してすぐの木と、しばらく経った木の違いは、うちの庭でも毎日見ている。
出迎えの仲居の所作を見た。膝の折り方、荷物への手の伸ばし方、視線を落とすまでの間。教わったのか、身についたのか、その境目までは見えない。見えないが、悪くない所作だと思った。悪くないと思ったことを、少し悔しく思った。
湯は黒かった。硫黄と塩分の混じった、この土地でしか出ないという泉質らしい。肩まで沈むと、湯の重さが普段と違った。うちの湯とは、色も重さも違う。それでも、湯上がりに肌が同じように火照るのは同じだった。
廊下で、男とすれ違った。地味な上着だった。片手に黒い手帳。もう片方の手は、ポケットに入れず、体の脇に自然に下ろしていた。靴は使い込んでいたが、汚れてはいなかった。手入れをしている靴だと分かった。歩き方に迷いがなかった。この宿の廊下を、もう何度も歩いたことがあるような足の運びだった。目は合わなかった。
お仕度
部屋食の膳が運ばれてきた。運んできた仲居の手つきを、私はまた見てしまった。皿を置く順番、向きを直す角度、お膳の脚が畳に当たる音の小ささ。
一品ごとに、名前を添えて説明してくれた。長すぎない説明だった。客が退屈しない長さで切り上げる呼吸を、この人も持っている。
「長くお勤めですか」
聞くつもりのなかった言葉が出た。仲居は少し驚いた顔をして、それから、母の代からです、と答えた。母がここで四十年働いて、自分が継いで十二年になる、と。
それだけだった。多くは語らなかった。語らないことに、矜持があるように見えた。それは、私が自分の客について語らないときの矜持と、同じ種類のものだった。
三十七ページのノートのことは、話さなかった。話す必要がなかった。

竹亭
離れの「竹亭」は、古民家を移築したものだと聞いた。柱の太さが、本館とは違う時代の木を思わせた。時代の違う木が、同じ屋根の下にある。二百八十年のあいだに、何度もそういうことがあったのだろう。
夜、床の間に飾られた将棋の駒の写真を見た。この宿で行われた対局の記念だという。一局に何時間もかける人たちが、この部屋のどれかに座っていた。
私の仕事に、そういう長い一手はない。一晩の膳を整えて、翌朝また整える。それの繰り返しだ。繰り返しに長い一手がないことを、劣っているとは思わない。ただ、この宿の誰かが、その繰り返しを二百八十年続けてきたことの重みだけは、分かる気がした。
一行だけ
朝、もう一度湯に入った。夜より黒さが薄く見えた。光の加減だと思う。
十一時前に発って、駅まで送ってもらった。越後線で新潟駅へ戻り、新幹線に乗り換えた。
座席で、スマホのメモを開いた。うちの引き継ぎノートの写真を撮って保存してある。三十七ページ、全部。
後輩が繕い物の糸を私と同じ長さに切っていたことを、また思い出した。あれは、正しいからじゃない。正しいと思われているからだ。
新潟駅で買った便箋を膝に置いて、一行だけ書いた。ノートの続きに挟むための紙だ。糸の長さは決まりではなく、私のやり方です。正解は、あなたが自分で見つけてください。
書いてから、字を見直した。前任者の右上がりの字とは、違う字だった。それでいいと思った。
窓の外を、まだ知らない駅の名前が流れていった。
