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便箋
高志の宿から帰って、二か月が経った。後輩に渡すつもりで書いた便箋は、まだ引き継ぎノートに挟んだままだった。
先週、後輩が繕い物の糸を切りながら、何寸ですか、と聞いた。八寸五分です、と私は答えた。答えてから、口の中が乾いた。決まりではない、癖です、と言うつもりだった。後輩はものさしを出して、自分の糸をその長さに合わせた。合わせた糸で、丁寧に縫っていた。
便箋に書いたのは、糸は好きな長さに切っていい、という一行だけである。渡せば、渡せるものは何も無いと書いた紙を渡すことになる。
次の膳の支度へ回りながら、右の親指の腹で人差し指の関節をこすっていた。
その晩、帳場で福岡の宿の記事を見た。慶応元年創業。湯の温度と湧出量を、四十八度・毎分百リットルと公式に書いている。うちの湯には、そういう数字が出ていない。出ていないから、朝いちばんに湯口へ手を入れる者がいる。
数字を出して客を呼んでいる宿は、その数字の裏側を誰の手で持っているのだろう。それを見に行くつもりだとは、女将には言わなかった。休みを願い出るとき、声が少し高くなった。日付だけ言って、下がった。
二日市
新幹線で博多まで、五時間近い。博多からJR鹿児島本線に乗り換え、二日市駅で降りた。駅から徒歩十分。住宅地の中を歩いていくと、老舗の門が見えてきた。

門をくぐると、庭園があった。三千五百坪あるという。大正・昭和・平成、それぞれの時代の建物が分かれて建っている。
次田の湯
案内された部屋は、昭和四十五年建築の平屋だった。堀ごたつがあった。案内の仲居は廊下の折れるところで半歩だけ先に立ち、折れ終わると私の横に戻った。私は歩幅を合わせようとして、三歩でやめた。
部屋に入ると、仲居は障子を一度開けて、閉めた。開けたときに、下の桟が畳を擦る音がした。二度目に開けたときは、しなかった。庭が見えます、と言われて、私はそちらを見た。

廊下で、湯上がりらしい男とすれ違った。歩く速さが一定だった。濡れた手拭いを、絞らずに提げていた。
大浴場に入った。四十八度・毎分百リットル。掲示の数字を、湯に入る前に読んだ。
湯口の下に手を入れて、いくつ数えられるかを数えた。七つで抜いた。もう一度入れて、六つで抜いた。
浸かっていると、作務衣の男が桶を持って入ってきた。湯口の縁を布で拭いて、湯の落ちる先に手をかざして、出ていった。三十秒ほどだった。
肩まで沈めて、庭のほうで水の落ちる音を聞いた。落ちる間隔は一定ではなかった。
天拝会席
夕食は個室で出た。月替わりの創作会席だという。品数が多く、一つ一つに時間をかけて説明があった。私は箸を持たずに、説明が終わるのを待った。待ってから、いただきますと言った。
膳を下げる手つきを見ていたら、目が合った。
「お仕事は、こちらのほうですか」と聞かれた。
休みで来ました、と答えた。仲居は、さようでございますか、と言って、膳を持って出ていった。障子は、音を立てずに閉まった。
閉まったあとも、膝の上の右手は、糸を切るときの形のままだった。
糸
朝、だし巻き玉子と温泉どうふの朝食を食べた。
十一時前に発って、二日市駅まで戻り、博多、新幹線と乗り継いで、会津へ戻った。
車内で、引き継ぎノートを開いた。便箋を出して、書き直した。糸のことは書かなかった。書いたのは、竹垣向きの部屋は季節で障子の建て付けが変わるので、お着きの前に一度開けて閉めておくこと、という一行だった。
書き直した便箋を、前と同じ頁に挟んだ。ノートを閉じて、膝の上に置いた。会津まで、まだ二時間あった。
