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就職が決まった
娘から電話があった。就職が決まった、と言った。
おめでとう、と言うのに、少し間があいた。間があいたことを、娘は気にしなかった。
言葉より先に、宿を調べた。将棋の対局に使われる部屋がある宿だと、検索で知った。
二時間
上越新幹線で、新潟まで二時間ほどだった。新潟駅から越後線に乗り換えて、岩室駅まで五十分近くかかった。乗り換えの多い旅だった。乗り換えの多さを、娘は気にしなかった。
岩室駅から、タクシーで八分ほどだった。運転手が、庄屋屋敷は今も屋根の葺き替えに三年かかると言った。聞いていない話だったが、聞いた。
宿は、江戸時代の庄屋屋敷を本館にしているという。二百八十年、そこに建っている。

対局の間
宿の人が、対局の間を見せてくれた。将棋のタイトル戦が、ここで指されたことがあるという。畳の広さと、窓からの光の入り方が、長く座っていられるように作ってあった。
長く座る、という一点のために作られた部屋を、私は初めて見た。急いで指す将棋は無いのだと、宿の人が言った。急いで決まる勝負ではない、という意味だったと思う。
娘は、黒湯という珍しい泉質の話を、宿の人から聞いていた。私は、対局の間の畳を、少し長く見ていた。

広間の隅に、男が一人いた。運ばれた黒湯の説明書きを、何度も読み返していた。
夕食で、娘は初任給の使い道の話をした。私は、ほとんど聞いていた。話を遮る言葉を、私は持っていなかった。
万年筆
夜、娘が湯に行っているあいだ、私は持ってきた便箋に、万年筆で何か書いた。インクは青のままである。長い言葉は書かなかった。おめでとう、とだけ書いた。
湯から戻った娘に、便箋を渡した。読んだ娘は、何も言わなかった。何も言わないことが、伝わったということだと、私は思うことにした。
朝、駅までの車の中で、娘が便箋のことを聞いた。私は、書いたことは覚えているが、何を書いたかは忘れた、と答えた。嘘だった。嘘をついたのは、初めてかもしれない。
