ABOUT
RECORD № 016

型のある家で、型のない字を

結果の出ない日々を、どういう制度で書き続けるか

宿を転々としながら小説を書いている。まだ何の結果も出ていない。書けない日の自分をどう許すか、その決まりを自前で組み立てている途中。黒瀬とは逆向きに漂流している男。

蓮という語り手について →

本記事はアフィリエイト広告(一休.com)を利用しています。

選外

九月の第一週に、結果が出た。最終候補の五編に、僕の名前はなかった。二次までは通っていた。二次通過は、三年で四回目になる。四回目、と数えている時点で、たぶん何かがおかしい。

選評が出るのは十一月だ。僕はそれを読む。読んで、僕の作品への言及がないことを確認して、それでも隅々まで読む。他人への評を読んで、自分に当てはめられるところだけを、当てはめる。その作業を、僕は「勉強」と呼んでいる。呼び方を変えたのは去年だ。それまでは「傷を舐める」と呼んでいた。呼び方を変えたら、少しやりやすくなった。やりやすくなったことが、いいことなのかは、分からない。

制度を確認した。一行書けたら湯に入る。それが僕の制度で、去年の夏に自分で決めた。決めてから何度も破り、破るたびに改定した。いまの版では「一行」の定義がかなり緩い。その日は、一行も書いていなかった。なので、湯に入る資格はなかった。資格はなかったが、宿を取った。

金沢から車で二十分の、一軒宿だった。寛政元年創業、西暦だと一七八九年。フランス革命の年だ、と思って、思っただけで、何にもならなかった。能舞台がある、と書いてあった。大正時代のものだという。僕は能を知らない。知らないが、舞台がある家に泊まったことは、ない。

森本から七分

北陸新幹線で金沢まで。そこから電車で森本という駅まで行って、タクシーに乗った。金沢駅から直接タクシーでも行けるが、七分と二十分では、料金が違う。僕の旅は、いつもこの計算でできている。残高から逆算した経路だ。

タクシーの運転手が、深谷ですか、と聞いた。はい、と答えると、静かなとこですよ、と言われた。静かという言葉を、宿の紹介文以外で聞いたのは久しぶりだった。窓の外は、金沢の市街を抜けたあと、しばらく畑で、九月の初めの稲は、もう色が変わりかけていた。七分は短い。短いのに、着いたときには、来た方向が分からなくなっていた。

画像はイメージです

能舞台

館に入って、案内された廊下の途中に、それはあった。板の床が、他の床と色が違う。摺り足で使われた床は、こうなるのだと思う。思っただけで、確かめていない。正面に、松が描いてあった。能舞台には松を描くものらしい。それは知っていた。知っている数少ないことのひとつだった。

大正時代のものだと聞いた。百年ちょっと。この宿の歴史からすれば、後から入ったものだ。寛政元年から数えれば、二百三十年以上ある。その二百三十年のあいだに、この家は能舞台を足した。足そうと決めた人が、いた。僕は、自分の書くものに何かを足そうとして、いつも途中でやめる。やめる理由は毎回違う。違う理由を毎回考えつくのが、僕の唯一の才能かもしれない——そこまで考えて、恥ずかしくなった。上手いことを言おうとしている。舞台の端に、指を置いてみた。冷たかった。

琥珀

湯は、琥珀色だった。透明ではなく、濁ってもいない。茶色い水を透かして見ているような色で、底の石が見えるのに、遠くに見えた。モール泉というのだと書いてあった。ナトリウム-炭酸水素塩泉、含重曹硫黄泉、とも。僕はメモを取った。取ってから、これを書くために来たわけではない、と思った。思ってから、じゃあ何のために来たのか、と考えて、答えが出なかった。

露天のほうは、外の空気が冷たかった。九月の初め、金沢の山側は、夜になるともう秋だった。岩の端に、黒い手帳が一冊、伏せて置いてあった。持ち主は少し離れた湯のなかで、目を閉じている。濡れない場所に手帳を置いて、いまは、書いていない。僕は湯のなかでも、書くことを考えている。手帳を置ける人と、置けない人がいるのだと思った。

画像はイメージです

湯から出て、部屋に戻った。机があった。ノートを出して、一行、書いた。書いてから、消した。消して、また書いた。そのあいだ、廊下のほうで板の鳴る音がした。誰かが歩いている音だ。摺り足ではなく、普通に歩く音。型のある家のなかで、型のない字を書いていた。

朝、もう一度舞台の前を通った。夜のあいだに人が歩いた跡は、当然だが、残っていない。板は板のまま、そこにあった。

チェックアウトは十時。タクシーを呼んでもらって、森本まで出た。帰りの新幹線でノートを開くと、昨夜の一行が残っていた。消した跡の上に、書き直した一行が。いい一行かどうかは、分からない。分からないので、制度のほうを確認した。一行書けたら湯に入る。昨日、僕は湯に入ってから書いた。順番が逆だった。改定するべきかもしれない。

改定しなかった。制度をいじるのは、書かずに済ませるための、いちばん手の込んだ方法だと、今回だけ、気づいてしまったからだ。いじるのを、やめてみる。うまくいくかは、分からない。東京駅で降りて、山手線に乗り換えた。車内は混んでいて、ノートを開く場所はなかった。ノートは開けなかったが、昨夜の一行は、もう書いてある。

この続きに

PR 宿を予約する 金沢・深谷温泉 元湯石屋 別の小説 三百年、途切れずに
蓮の記録をすべて見る →

Field Notes

金沢・深谷温泉 元湯石屋

Overview

石川県
Region
石川県金沢市深谷町(深谷温泉)
Access
東京駅から北陸新幹線で金沢駅へ。金沢駅からタクシー約20分、JR森本駅からタクシー約7分。公共交通だけでは到達できない
Price
中価格帯(夕朝食付2名税込 48,048円〜。別プランで41,800円〜の表示もあり)

Facility

Room
全20室。和室(梅鉢8〜10帖、孔雀の間8帖、梅の間8帖+6帖など)。露天風呂付き客室あり
Meal
会席料理(提供場所は要確認)

宿タイプ

  • 温泉旅館
  • 一軒宿
  • 秘湯
  • 老舗宿
  • 露天風呂付き客室

向いている人間

  • 大正時代の能舞台や宮大工の書院がある建物に泊まりたい人
  • 寛政元年創業・加賀藩ゆかりの老舗に関心がある人
  • 琥珀色のモール泉に入りたい人
  • 市街から離れた一軒宿を求める人

向いていない人間

  • 公共交通だけで到達したい人(金沢駅・森本駅いずれからもタクシーを要する)
  • 金沢市街の観光と徒歩で組み合わせたい人
  • 19時までにチェックインできない人

予約前の注意事項

チェックインは15:00〜19:00、チェックアウトは10:00。金沢駅・森本駅いずれからもタクシーを要し、公共交通だけでは到達できない。送迎の有無、食事の提供場所、一人泊の可否はいずれも明記がないため予約前に確認が必要。料金は変動する。