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選外
九月の第一週に、結果が出た。最終候補の五編に、僕の名前はなかった。二次までは通っていた。二次通過は、三年で四回目になる。四回目、と数えている時点で、たぶん何かがおかしい。
選評が出るのは十一月だ。僕はそれを読む。読んで、僕の作品への言及がないことを確認して、それでも隅々まで読む。他人への評を読んで、自分に当てはめられるところだけを、当てはめる。その作業を、僕は「勉強」と呼んでいる。呼び方を変えたのは去年だ。それまでは「傷を舐める」と呼んでいた。呼び方を変えたら、少しやりやすくなった。やりやすくなったことが、いいことなのかは、分からない。
制度を確認した。一行書けたら湯に入る。それが僕の制度で、去年の夏に自分で決めた。決めてから何度も破り、破るたびに改定した。いまの版では「一行」の定義がかなり緩い。その日は、一行も書いていなかった。なので、湯に入る資格はなかった。資格はなかったが、宿を取った。
金沢から車で二十分の、一軒宿だった。寛政元年創業、西暦だと一七八九年。フランス革命の年だ、と思って、思っただけで、何にもならなかった。能舞台がある、と書いてあった。大正時代のものだという。僕は能を知らない。知らないが、舞台がある家に泊まったことは、ない。
森本から七分
北陸新幹線で金沢まで。そこから電車で森本という駅まで行って、タクシーに乗った。金沢駅から直接タクシーでも行けるが、七分と二十分では、料金が違う。僕の旅は、いつもこの計算でできている。残高から逆算した経路だ。
タクシーの運転手が、深谷ですか、と聞いた。はい、と答えると、静かなとこですよ、と言われた。静かという言葉を、宿の紹介文以外で聞いたのは久しぶりだった。窓の外は、金沢の市街を抜けたあと、しばらく畑で、九月の初めの稲は、もう色が変わりかけていた。七分は短い。短いのに、着いたときには、来た方向が分からなくなっていた。

能舞台
館に入って、案内された廊下の途中に、それはあった。板の床が、他の床と色が違う。摺り足で使われた床は、こうなるのだと思う。思っただけで、確かめていない。正面に、松が描いてあった。能舞台には松を描くものらしい。それは知っていた。知っている数少ないことのひとつだった。
大正時代のものだと聞いた。百年ちょっと。この宿の歴史からすれば、後から入ったものだ。寛政元年から数えれば、二百三十年以上ある。その二百三十年のあいだに、この家は能舞台を足した。足そうと決めた人が、いた。僕は、自分の書くものに何かを足そうとして、いつも途中でやめる。やめる理由は毎回違う。違う理由を毎回考えつくのが、僕の唯一の才能かもしれない——そこまで考えて、恥ずかしくなった。上手いことを言おうとしている。舞台の端に、指を置いてみた。冷たかった。
琥珀
湯は、琥珀色だった。透明ではなく、濁ってもいない。茶色い水を透かして見ているような色で、底の石が見えるのに、遠くに見えた。モール泉というのだと書いてあった。ナトリウム-炭酸水素塩泉、含重曹硫黄泉、とも。僕はメモを取った。取ってから、これを書くために来たわけではない、と思った。思ってから、じゃあ何のために来たのか、と考えて、答えが出なかった。
露天のほうは、外の空気が冷たかった。九月の初め、金沢の山側は、夜になるともう秋だった。岩の端に、黒い手帳が一冊、伏せて置いてあった。持ち主は少し離れた湯のなかで、目を閉じている。濡れない場所に手帳を置いて、いまは、書いていない。僕は湯のなかでも、書くことを考えている。手帳を置ける人と、置けない人がいるのだと思った。

湯から出て、部屋に戻った。机があった。ノートを出して、一行、書いた。書いてから、消した。消して、また書いた。そのあいだ、廊下のほうで板の鳴る音がした。誰かが歩いている音だ。摺り足ではなく、普通に歩く音。型のある家のなかで、型のない字を書いていた。
板
朝、もう一度舞台の前を通った。夜のあいだに人が歩いた跡は、当然だが、残っていない。板は板のまま、そこにあった。
チェックアウトは十時。タクシーを呼んでもらって、森本まで出た。帰りの新幹線でノートを開くと、昨夜の一行が残っていた。消した跡の上に、書き直した一行が。いい一行かどうかは、分からない。分からないので、制度のほうを確認した。一行書けたら湯に入る。昨日、僕は湯に入ってから書いた。順番が逆だった。改定するべきかもしれない。
改定しなかった。制度をいじるのは、書かずに済ませるための、いちばん手の込んだ方法だと、今回だけ、気づいてしまったからだ。いじるのを、やめてみる。うまくいくかは、分からない。東京駅で降りて、山手線に乗り換えた。車内は混んでいて、ノートを開く場所はなかった。ノートは開けなかったが、昨夜の一行は、もう書いてある。
