宿と小説の読みもの、余白
RECORD № 060

持っていくものが増えた

仕事を機械に明け渡したあと、何が自分に残るか

長く雑誌の編集をしていた。その仕事の大半は、いま機械がやっている。フリーの校正者になって、ゲラの角を撫でて直す癖だけが手に残った。編集者だった自分との距離を、まだ測りかねている。

楓という語り手について →

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追記

AIが出した校正結果に、私が赤を足す。その形の仕事を、春から数えて何件受けたか、もう正確には言えない。十件は超えている。

単価は少し上がった。上がったぶん、量が増えた。増えたぶん、一件あたりに使う時間は減った。減った、というより、減らした。そのほうが合うからだ。

次の一件は単価ではなく、赤を入れたい文章かどうかで選ぶ。そう決めたのは春で、決めた相手への返信は、下書きのフォルダに入ったままになっている。出していない理由を、私はうまく言えない。言えないので、しばらく開いていない。

その週のゲラに、宮崎の温泉の話が出てきた。書き手は宿の名前を二度書いていて、一度目と二度目で送り仮名が違っていた。私は赤を入れた。入れながら、名前のほうを憶えてしまった。

二酸化炭素濃度千三百ppm以上、とその原稿にはあった。単位の表記は統一されていなかったので、そこにも赤を入れた。数字は、そのまま頭に残った。

眼鏡の右下に、小さな傷がある。去年からある。買い替えるほどではない、と毎回思って、毎回そのままにしている。

吉都線

羽田から宮崎まで飛んで、そこから鉄道を乗り継いだ。都城で吉都線に乗り換える。本数が少ないので、乗り継ぎを先に決めてから、飛行機の便を決めた。

画像はイメージです

一両の列車だった。刈り入れの前の田が、窓のすぐ下まで来ている。稲が重くて、穂の先が揃わずに垂れていた。揃っていないほうが、稔っているように見えた。

高原という駅で降りた。改札の外に、宿の名前を書いた紙を持った人が立っていた。予約のときに電話で確かめておいた。確かめておいてよかった、と思った。

車の窓から、山が見えた。稜線が二つ重なっていて、手前のほうが濃い。

持ち物

宿は十一室だという。廊下が短い。短い廊下の突き当たりに、離れへ渡る戸があった。

風呂へ行って、気づいた。石けんが無い。シャンプーも無い。無い、と書いてあるとおりに無かった。

予約の画面の設備一覧を、私は仕事の癖で最後まで読んでいた。読んで、必要そうなものを紙に書き出して、鞄に入れてきた。書き出したのは八項目で、そのうち六つを使った。

画像はイメージです

湯は二つあった。片方は冷たい。入ると、腕の産毛に細かい泡がついた。しばらくすると、泡は増えて、指でこすると離れた。もう片方は褐色で、こちらは温かい。冷たいほうと温かいほうを、交互に使うのだと教わった。

言われたとおりにやってみた。三度目で、肩の力の抜け方が変わった。

千三百

夕食の膳を運んできた人が、湯の話をした。天明の頃に見つかって、宿になったのは明治だという。年号で言われると、間の長さが分かりにくい。分かりにくいまま、聞いていた。

膳の隅に、小鉢が四つ並んでいた。四つとも大きさが違う。窯の違いなのか、揃えていないのか、私には分からない。分からないものを、分からないまま見ているのは、久しぶりだった。

食堂の隅で、一人の男が食べ終わっていた。手帳を開いて、閉じて、また開いた。二度目のとき、書かずに閉じた。

部屋に戻って、湯呑みを持ったら、糸底がざらついた。指の腹で二度なぞって、置いた。

千三百という数字を、私はまだ憶えている。原稿で見た数字が、湯の泡と同じものを指しているのだと、入ってから結びついた。結びついたが、それで何かが変わったわけではない。

揃わない

朝、冷たいほうの湯に、もう一度入った。泡は昨日より早くついた。気のせいかもしれない。

帰りの列車まで時間があって、駅の待合で鞄を開けた。持ち物の紙が出てきた。八項目のうち、使わなかった二つに、私は横線を引いた。

線を引いてから、この紙を次も使うつもりでいることに気づいた。気づいただけで、鞄には戻さず、上着のポケットに入れた。

東京に着いて、二日後に、春から取引のある編集者から短いメールが来た。仕事の話のあとに、一行だけ。最近、指摘の書き方が変わりましたね、とあった。

変えたつもりはない。返信には、そのことは書かなかった。

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Field Notes

湯之元温泉

Overview

宮崎県
Region
宮崎県西諸県郡高原町(霧島山麓)
Access
JR吉都線「高原」駅が最寄り。宮崎自動車道 高原ICから車で10〜15分。駅などへの送迎は宿へ問い合わせる
Price
予約サイトで確かめた一万円台前半〜(1名1室・夕朝食付) 2名1室での実測一万円台前半〜(2名1室の1名分・夕朝食付) 公開の情報から中価格帯(夕朝食付2名1室で1名あたり税込一万円台前半〜。1名1室は夕朝食付一万円台前半〜、朝食付一万円に届かない、素泊まり一万円に届かない)

Facility

Room
和室10室・和洋室1室の全11室。高千穂峰を望む客室と、離れの客室がある
Meal
夕朝食付の湯之元会席。朝食付・素泊まりのプランもあり、1名1室でも選べる

宿タイプ

  • 温泉旅館
  • 湯治宿
  • 山麓の宿

向いている人間

  • 1泊2食を1万円台前半に収めたい一人客
  • 炭酸泉と褐色の鉱泉を目的に宿を選ぶ人
  • 設備の充実ではなく、湯治場の素朴さを求める人

向いていない人間

  • アメニティを宿に期待する人(シャンプー・リンス・ボディソープ・石けん・ドライヤー・くし・温水洗浄トイレ・羽毛布団がいずれも「×」。持参が要る)
  • 公共交通での到着時刻を先に確定させたい人(吉都線は本数が少なく、駅からの送迎は問い合わせ制)
  • 露天に好きな時間に入りたい人(男女入れ替えの時間交代制)

予約前の注意事項

シャンプー・リンス・ボディソープ・石けん・ドライヤー・くし・温水洗浄トイレ・羽毛布団が、じゃらんnetのアメニティ一覧でいずれも「×」になっている。歯ブラシ・タオル・浴衣・髭剃りはある。湯は加温。露天は男女入れ替え(時間交代)制。最寄りの高原駅から宿までの手段と所要は、予約時に宿へ確認すること。

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