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用は無い
五月に、後輩から、休みの日は何をしているのかと聞かれた。答えた。いいですね、自由で、と言われた。
自由。その語を、私は自分について一度も使ったことがない。使われるほうは、たまにある。
その日の帰り、いつも降りる駅を一つ乗り過ごした。気づいて降りて、一駅ぶん歩いた。歩数は数えなかった。
七百八十五段だということは、行く前から知っていた。数が先に決まっているところへ行きたかった。
特に用は無い一人旅だった。理由を聞かれたら、無い、と答えるつもりだった。聞かれなかった。
琴平に着いたのは、昼過ぎだった。宿に荷物を預けて、まず参道へ向かった。
石段の途中に、数を書いた立て札があった。本宮まで、七百八十五段。知っていた数が、そこに書いてあった。
数えるつもりはなかったが、途中から数えていた。
段
日差しが強い。木陰のところだけ、涼しさが違う。あれ、と呼びそうになるほど、涼しさの質が変わる場所があった。
途中、若い夫婦が子どもを交代で抱えて上がっていた。子どもは眠っていた。抱えている腕が、途中で右から左へ持ち替えられた。持ち替えるあいだも、子どもは起きなかった。
平らになったところで、男が一人休んでいた。息は上がっていない。上ってきたほうを、まっすぐ見ていた。私が抜くとき、半歩だけ寄って道を空けた。
本宮に着いた。段の数を、頭の中で最後まで数え終えていた。
なぜ
なぜ今日は数える気になったのか、下りながら考えた。
答えは出なかった。下りは、上りより膝に来る。手すりを持つ手を、途中で右から左に替えた。

二つの館
帳場で、こんぴらさん、上られましたか、と聞かれた。はい、と答えた。
「何分かかりました」
時間は見ていなかった。段のほうは数えた。
分かりません、と答えた。係の人は、そうですか、と言って、まだこちらを見ていた。
宿は二棟あって、山の見えるほうの湯は、そちらに泊まった人だけが入れると聞いた。私はそちらではなかった。窓のないほうの湯に入った。
湯の中で、ふくらはぎに手を当てた。硬い。押すと痛い。押すのをやめて、手を離した。離してからも、しばらく同じ姿勢でいた。湯の面が、肩のところで一度だけ揺れた。
上がって、脱衣所に体重計があった。乗った。針が動くのを待たずに降りた。数字は見ていない。
夕食は、大きな食事処だった。卓に番号が振ってある。私の番号は端のほうだった。部屋は二百二十三あるという。食事処で聞いて、部屋へ戻るまでに忘れた。七百八十五のほうは、忘れなかった。
母の切り抜きのことを、少しだけ考えた。丸をつけた一枚と、缶の中の残りと。今日はどちらも、鞄には入れてこなかった。
帰り
朝、同じ食事処で、昨日の係の人が、下りはいかがでしたか、と聞いた。
七百八十五です、と答えた。上りで数えました、と続けた。
係の人は、多いですね、と言った。理由は聞かれなかった。
駅へ向かう道で、もう一度参道の方を見た。
段の数は、覚えている。覚えているが、もう一度数えるつもりはない。
改札の手前で、兄に、七百八十五、とだけ送った。用は書かなかった。返事は、電車が来るまでに来なかった。
