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納品
朝の五時に、わたしは納品した。頼まれていた装丁まわりの一式。最後に書体をひとつ替え、級数をふたつ落として、終わりにした。メールの文面は三行。送信して、湯を沸かした。沸くまで、窓辺に立って待つ。この時間は、何にも数えない。
組んでいたのは、小さな出版社の詩集だった。ノドの余白を広めに取ってある。詩は、白で読む。編集者は最初、白が多すぎませんかと言った。校正紙を二枚並べて見せたら、それきり何も言わなかった。
作業机には鉛筆が四本。芯の硬さが違う。どれも短くなるまで使い、短くなったものは空き瓶に立ててある。捨てる理由が、まだ見つからない。
窓の外はまだ薄暗い。五月が終わったばかりの東京は、朝から蒸れはじめている。ささくれた指に絆創膏を巻き替えた。紙を触る仕事は、指が先に傷む。
先週、仕事の話をひとつ持ち帰った。長く続く契約になるはずのものだった。単価も悪くない。打ち合わせは渋谷の高いビルで、受付で首から札を下げた。会議室のガラスの向こうを、人が絶えず流れていた。名刺を四枚もらった。こちらが出す名刺は、一枚でいい。席で、先方は言った。媒体に顔を出していただける方だと、進めやすいんですが。わたしは資料を閉じた。持ち帰らせてください、とだけ言った。
返事は、まだしていない。
年賀状は五枚しか出さない。住所録の頁には、五人の住所が載っている。減っていったのではない。そう組んである。五人のうちひとりは、会ったことがない。文字だけのやりとりが十年続いている。誰にも説明しない。訊かれもしない。
通帳を記帳した。数字は去年より薄い。頁を閉じる。仕事は、憶えていられる分だけで足りる。
紙面と同じだ。白は、余ったところではない。先に取っておくところだ。
軽井沢の宿は、三日前に取った。古いホテルのガラス障子の写真を、いつか見たことがある。桟の間隔を憶えていた。標高およそ九百四十メートル。六月の頭、梅雨に入る前の高原。確かめたのはそれだけだった。
あさま
平日の東京駅。新幹線ホームには出張の鞄が並んでいた。発車まで、柱の近くで立って待つ。売店には寄らなかった。北陸新幹線のあさまに乗る。かがやきは軽井沢に停まらない。速い列車は通過する。停まるほうを選ぶ。
窓側の席に着いた。発車して、ビルの壁が流れはじめる。わたしは景色をあまり見ない。窓枠と景色のあいだ、何も映っていないところを見る。ガラスの端の、像が少し歪むあたり。車内でそこがいちばん静かだ。
通路を挟んだ席の人は、降りるまで画面を見ていた。指が同じ動きを繰り返す。見たことは、憶えないことにした。
鞄には塩豆の袋が入っている。三粒だけ食べて、口を閉じた。
大宮を過ぎ、高崎を過ぎると、窓の緑の量が増えた。景色が立ち上がり、列車はトンネルに入った。碓氷峠の下を抜けている。わたしは耳の気圧が抜けにくい。唾を呑みながら、暗い窓に映る自分の輪郭から目をずらした。トンネルを出るたび、緑は濃くなった。
軽井沢駅に降りると、空気が先に冷たかった。東京より数度低く、乾いている。上着を羽織る。七十分あまりで、季節がひと月ぶん戻った。
タクシーは五分だった。駅前の直線が終わると、木立が濃くなる。桜の沢、と運転手が言った。緑が路面まで降りてきて、その奥で車は停まった。

桜の沢
万平ホテルは、一九〇二年からこの木立の中にある。木が先か、建物が先か、分からない立ち方をしていた。玄関までの数歩で、梢が空を狭くする。
棟は三つあって、建った年代がそれぞれ違う。わたしはアルプス館を選んである。昭和十一年の建築の意匠を再現した棟だと、予約の頁にあった。新しい棟には温泉が引かれているらしい。迷わなかった。
十五時に部屋へ入った。ガラス障子は、桟が細かい。木立の緑が、小さな面にいくつも割り付けられている。風が梢を渡るたび、床に並んだ光がいっせいに揺れた。詰めすぎていない。桟と桟のあいだが、ちょうどいい。長くいられる部屋かどうかは、そこで分かる。
窓の下は木立で、道は見えない。二キロ先に駅と商店街があるはずだが、音は届かなかった。
机の抽斗の前板に、軽井沢彫の桜があった。指でなぞる。彫りの溝の底に、窓の光が細く溜まっていた。彫った人は、この間隔で花を置いた。詰めれば華やかになる。詰めなかった。浴室には猫足のバスタブが据えてある。
荷物は少ない。着替えと、スケッチブックと、鉛筆が二本。机に並べても、天板の白いところのほうが広かった。覆いの布は掛けたまま、スケッチブックを椅子の脇に立てかけた。
テラス
午後のカフェテラスは、にぎやかだった。泊まり客ではない人たちが、日中は出入りする。皿の鳴る音。重なる会話。椅子を引く音。隣の卓では、家族連れが菓子の皿を囲んで写真を撮っていた。撮り終わるまで、誰も皿に触らない。一九七〇年代の夏、家族でここに通った音楽家がいた、と何かで読んだことがある。
奥の席に、男がひとりいた。ざわめきの中で、その席だけが静かだった。手帳に何か書いては、庭のほうへ目を戻している。
紅茶を頼んで、庭に近い席に着いた。電話が鳴った。持ち帰った案件の番号だった。わたしは庭に目を置いたまま出た。
「今回は、お受けしません。——ええ、理由は、特に」
通話は短く済んだ。契約の金額は、憶えている。憶えているだけにする。紅茶は少し冷めていた。冷めた分だけ、渋みが立つ。
布をめくった。部屋の床で見た光の割付を、鉛筆で写す。手が先に動いて、頭があとから来る。こういう手の動きなら、頼まれなくてもする。ざわめきは、いつの間にか遠くなっていた。紙の上を滑る芯の音だけが、卓に残った。
夕食はメインダイニングルームで取った。代々の料理長に受け継がれてきたというフランス料理。皿の余白が広い。盛りは中央に小さく、白がよく働いていた。給仕の人の説明は短かった。間合いが、いい。組んだ人の手つきを思った。
夜になると、館は音を減らした。昼のざわめきは、外来の客と一緒に引いていく。廊下の絨毯が足音を呑む。猫足のバスタブに湯を張り、肩まで沈んだ。硝子一枚の外の冷気と、湯の熱。皮膚の内と外に、別の温度ができる。指の絆創膏を剥がした。ささくれは白くふやけていた。
寝る前に、電話の電源を切った。切って困る相手は五人しかいない。五人は、こんな時間に掛けてこない。
窓の外は、輪郭だけの木立になっている。東京の夜より暗い。暗さの級数が違う。
入梅前
目が覚めると、床にまた光が並んでいた。障子を引き、窓を開ける。六月の高原の朝は、足首から冷える。湿り気のない冷たさだった。梅雨は、まだ峠の向こうにいる。
昨日の頁を開いた。光の割付。桟の間隔は、目で憶えたとおりに引けていた。直すところは見当たらない。名前も日付も入れなかった。
出発までは、まだある。木立を歩いた。朝の光は低く、梢を斜めに通って、幹の東側だけを照らしている。若葉が一枚ずつ透けて、葉脈まで見える。土は夜の冷えを含んで締まっていた。知らない鳥が短く鳴いて、やんだ。名前は調べなかった。

テラスの椅子は、まだ卓に伏せてあった。
帰ったら、納品がひとつある。受けたほうの仕事。書体はもう決めてある。通帳は、来月も薄いだろう。
部屋に戻り、スケッチブックに布を掛けた。紐を結ぶ。窓は、もう少し開けておく。木立の冷気が、部屋の白いところを通り抜けていった。
