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大正二年の事故
大正二(一九一三)年八月、志賀直哉は東京で山手線の電車にはねられる事故に遭った。療養を要する怪我だった。二か月後の十月、向かった先が但馬の城崎温泉である。宿は三木屋。逗留はおよそ三週間に及んだ。
東京から見て、城崎は近い土地ではない。新幹線と特急を乗り継ぐ現在でも片道およそ五時間かかる。大正の鉄道なら、なおさらだったはずである。事故の後の身体で、志賀直哉はその遠さの先を療養の地に選んだ。八月の事故と十月の出発のあいだに何があったか、記録を膨らませることはしない。分かっているのは、東京で轢かれた人間が、二か月後に但馬の湯の町にいた、ということだけである。
湯は町のもの
城崎は、七つの外湯を巡る温泉街である。滞在客は宿で浴衣に着替え、下駄で通りへ出て、川沿いに並ぶ湯を巡る。宿が湯を抱え込まず、湯は町のもの、宿は休む場所、という分担が現在も維持されている。
三木屋はその通りに面した宿で、創業は元禄年間。およそ三百年続いてきた。志賀直哉が暖簾をくぐった大正二年の時点で、すでに二百年を超えていた計算になる。
現在の建物は昭和二(一九二七)年に建てられた木造で、東館は木造三階建て。二〇一四年に国の登録有形文化財に登録された。つまり、志賀直哉が事故の年に泊まった建物そのものではない。ただ、志賀はその後もたびたびこの宿に滞在したと伝わる。客室が面する三百坪の日本庭園は『暗夜行路』に描かれた。作家と宿の関係は、一度の療養では終わらなかった。
部屋は全十六室。和室が十二、和洋室が四つで、露天風呂はなく、内湯がふたつある。夕食と朝食は食事処「平八郎」で、会席が一品ずつ、皿が空くのを待って運ばれる。冬は津居山がに、通年で但馬牛など、土地の食材が中心になる。地酒は但馬杜氏の酒を九十ミリリットル単位で頼める。設備の一覧としては簡素に見える。外湯の町では、それで足りる構造になっている。
庭についても数字を置いておく。三百坪の庭に対して、客室は十六。一室あたりで割れば十八坪余り、という勘定になる。庭は割って使うものではないが、この比率は宿の性格をよく示している。部屋を増やす方向ではなく、庭を保つ方向で三百年が使われてきた。
向かない人も書いておく。露天風呂や客室露天を求める人。部屋食を前提にする人。駅からの近さを重視する人——宿までは徒歩約十五分で、無料の送迎バスは昼過ぎから夕方に着く特急に合わせたものだけ、しかも事前連絡が要る。チェックインは十五時から十八時。この宿の側から歩み寄ってくる要素は少ない。三百年の宿とは、そういうものである。
三週間と、四年
逗留は約三週間だった。一泊か二泊を単位に組み立てられる現在の旅とは、単位からして違う。傷が癒えるのを待つ時間が、そのままこの町で流れた。三週間あれば、七つの外湯を何巡もできる。どの湯に何度入ったかの記録は残っていないが、浴衣で通りへ出る町の構造は、当時から療養客のためにあった。
滞在から四年後の大正六(一九一七)年、『城の崎にて』が発表された。事故の後の療養を素材にした、生と死をめぐる静かな随筆的短編である。舞台はこの温泉街だった。四年という間隔は、体験がすぐには文章にならなかったことを示している。三週間の療養と、四年の沈黙。数字はふたつとも、急いでいない。
五時間の下り
いま、東京からこの宿へ向かう経路はこうなっている。東京駅から新幹線で京都まで約二時間十五分。京都から特急きのさきに乗り換えて約二時間半。特急は嵯峨嵐山の先で保津峡の渓谷を抜け、福知山、和田山、豊岡と停まりながら兵庫の北へ下り、終盤は円山川に沿って北上する。終点が城崎温泉駅で、宿までは川沿いを歩いて約十五分。合計およそ五時間である。
前半の二時間十五分と、後半の二時間半。距離は前半のほうがずっと長い。同じ五時間の中で速度が段階的に落ちていく行程で、この減速の分だけ、着いたときには東京が遠くなっている。
五時間は、現代の週末の旅としては長い部類に入る。その長さを承知でこの距離を下った一泊の記録が、連載の№010「遠いほうの切符を買う」にある。大正の作家は三週間、現代の客は一泊。持ち時間は違っても、下りていく線路は同じ方角を向いている。
城崎温泉駅で降り、川沿いを十五分歩く。通りに面した木造三階の建物が三木屋である。大正二年の秋、事故の傷を抱えた作家が辿り着いたのと同じ場所に、同じ屋号で建っている。
