宿と小説の読みもの、余白
RECORD № 071

鍵は、ひとつ

成果の物差しを失った人間は、何を「大漁」と呼べばいいのか

数字で組織を率いて、定年より早く退いた。成果の物差しを返したあとの時間が、まだ身体に馴染まない。妻と話していると、報告の口調が出る。出てから気づく。

克彦という語り手について →

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支度・十八分

「これ、何のメモ」と妻が手帳を持って立っていた。

開いていたのは先週の頁で、「支度・十八分」とだけ書いてあった。他意はない、と私は言った。他意はないのに、なぜ書くのか、と妻が聞いた。答えられなかった。

旅行の予約は、その前の週にもう入れていた。石川の記念日とは別に、九月の連休で渋温泉を取っていた。取り消すという発想が、どちらからも出なかった。気まずいまま、予定だけが残った。

十五時からの送迎

長野駅で新幹線を降り、長野電鉄の特急に乗り換えた。湯田中駅までは四十五分。宿の送迎は、十五時以降に着いた客からしか受けないと、予約のときに言われていた。それより早い電車には、意味がなかった。私たちはちょうど十五時過ぎの電車を選んでいたが、選んだというより、他に選びようがなかった。

車内で、妻は窓の外を見ていた。私は時刻表アプリを開かなかった。開く必要が、今回はなかった。

送迎の車で、宿までは八分だった。運転手は何も聞かず、何も言わなかった。

画像はイメージです

鍵は、ひとつ

帳場で、鍵をひとつ渡された。町に九つある外湯を、この鍵で開けて回るのだという。九つ回ると、苦がひとつ流れる、と紙に書いてあった。九、と苦、が同じ音であることを、私は帳場で初めて知った。

部屋には風呂が無かった。館内にも貸切の湯がいくつかあり、外の九湯とは別に使えるという。どちらから入るか、妻とは決めなかった。鍵は、そのまま私の上着のポケットに入った。

夕方、私は一人で外湯へ出た。妻は館内の貸切湯へ向かった。別々に行くことを、どちらも言い出さなかった。ただ、そうなった。

湯けむりの上がる細い通りを、提灯の灯りだけで歩いた。すれ違う下駄の音が、思ったより多かった。九湯は宿泊客なら誰でも回れるので、鍵を持っているのは私たちだけではない。

一番湯の前で、私は少し待った。中から男が一人出てきた。手拭いを絞らずに肩へ掛けて、鍵を握ったまま、次の湯のほうへ歩いていった。

画像はイメージです

三番湯まで回ったところで、鍵を持たない妻と、通りで会った。

「そっちの湯、混んでた」と妻が言った。

混んでいた、とだけ答えた。段取りも、時間も、聞かなかった。

九つ目

四番目の湯の前で、私は鍵を落とした。まだ夏の名残の、湿った石畳の上で、二度、滑って落とした。妻が拾った。拾いながら、声を出して笑っていた。

それから先は、二人で回った。鍵はひとつなので、開ける係と待つ係を、湯ごとに入れ替えた。

九つ目の湯を出たのは、九時を過ぎていた。妻は、九つ回ると苦がひとつ流れるという紙のことを、口には出さなかった。私も、出さなかった。そのまま、宿への道を戻った。

朝、宿を出るときに、鍵を帳場へ返した。次の客の名前は、聞かなかった。

十八分

家に帰った晩、手帳を開いた。先週の頁の「支度・十八分」に、指を置いた。線は引かなかった。

代わりに、今日の頁に一行だけ書いた。

「何時に出る、と聞いた。」

時間を測ったのではない。聞いただけである。聞いただけの行を、私はまだ、他の頁と同じ書き方でしか書けない。

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Field Notes

信州 渋温泉 古久屋

Overview

長野県
Region
長野県下高井郡山ノ内町(渋温泉)
Access
東京駅から北陸新幹線で長野駅へ約1時間30分、長野電鉄特急で湯田中駅へ約45分。宿の送迎は湯田中駅へ15:00以降に到着する便から対応(要事前連絡・送迎で古久屋まで約8分)。それより早く着く場合は自分で足を用意する。車なら信州中野ICから約15分。
Price
予約サイトで確かめた十万円台半ば〜(1名1室・夕朝食付) 2名1室での実測三万円台半ば〜(2名1室の1名分・夕朝食付) 公開の情報から中価格帯(一般和室・2名1室朝食付 税込三万円台半ば〜。露天風呂付き客室はさらに高い)

Facility

Room
一般和室(全室ウォシュレット付きトイレ完備)ほか。客室に風呂は無く、館内の貸切風呂・外湯めぐりを使う造り
Meal
朝食付プランと夕食付プランがある(夕食を宿か温泉街かで選べるプランもある)

宿タイプ

  • 温泉旅館
  • 貸切風呂
  • 老舗旅館

向いている人間

  • 部屋にこもらず、外を歩く時間を持ちたい二人
  • 貸切風呂を何度か使い分けたい人
  • 町の外湯めぐり(9か所)を楽しみたい人

向いていない人間

  • 部屋の中だけで完結させたい人(客室に風呂が無い)
  • 到着が15時より前になる人(送迎はそれ以降の便から)
  • 静かな一軒宿を求める人(温泉街の中心部)

予約前の注意事項

客室に風呂は無く、館内の貸切風呂と、宿から鍵を借りて回る町の外湯9か所を使う。送迎は湯田中駅に15:00以降に到着する便からの対応で、要事前連絡。それより早く着く場合は自分でタクシー等の足を用意する。料金は変動する。

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