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聞く前に
「Bがいい」と妻が言う前に、私は店員に「では、両方Aで」と言っていた。
出前の注文だった。妻の箸が向くのは、いつもBのほうだと知っていた。知っていて、Aで揃えた。揃えたほうが早いから、そう思っていた。
「聞く前に決めるのね」と妻が言った。責める声ではなかった。事実を、事実として置いただけの声だった。
四十二年、決裁は私の仕事で、決めることと聞くことを、私はどこかで同じ作業だと思い込んでいたらしく、決めてしまえば、それで聞いたことになると、深く考えもせずに扱ってきたのだと思う。
秋の連休、伊豆・熱川の宿を予約した。妻の名で予約したのは、これが初めてだった。
奈良という字
宿の住所は、静岡県賀茂郡東伊豆町奈良本だった。奈良県ではない、と車内で妻が地図を見て言った。四月に泊まった宿の名も、奈良屋といった。奈良、という字が、続けて出てきたことになる。理由は無い。ただの字である。
伊豆急下田行きの特急に、乗り換え無しで乗った。乗り換えの無い旅は、久しぶりだった。伊豆熱川駅から、宿の送迎バスに乗った。十四時二十五分から三十分おきに出ていると、予約のとき言われていた。私たちは十五時二十五分の便に乗った。

竹林の中を抜けると、宿の入口があった。庭が二つあるという。二つ目の庭は、部屋からは見えないところにあると仲居が言った。見えないところにある庭を、見えるように作らなかったことに、少し感心した。
AかBか
夕食は個室だった。品書きに、メインの料理をどちらか一つ選ぶ欄があった。鮑か、牛か。
仲居が、お二人でどちらにされますか、ではなく、お一人ずつどちらにされますか、と聞いた。聞き方が、私の知っている聞き方と違った。
妻は牛と言った。私は、少し遅れて、鮑と言った。遅れたのは迷ったからではない。聞かれ方に慣れていなかっただけである。

二つの皿が来た。妻の皿と、私の皿は違う皿だった。同じ卓で、違う皿を食べるのは、久しぶりだった。
妻が、鮑を一切れ、私の皿に置いた。私は牛を一切れ、妻の皿に置いた。交換は、聞かずにやった。
それぞれ
朝、貸切風呂の予約を取りに帳場へ行くと、二枠しか空いていなかった。連続する時間だった。妻は先の枠、私は後の枠にした。決めるのに、相談はしなかった。相談しなかったことに、途中で気づいて、少し驚いた。
帳場の前に、男が一人いた。空いている枠を、上から順に指でたどっていた。いちばん下まで行って、また上へ戻していた。
風呂は竹林に面していた。先に入った妻が上がるところと、私が入るところが、入れ替わりで少しだけ重なった。廊下で、タオル姿の二人がすれ違った。すれ違っただけで、どちらも足を止めなかった。
出前
家に帰った次の週、また出前を頼むことになった。品書きを妻に渡し、私は自分の分だけ選んだ。妻がBを選んだ。私はAのままだった。
店員に伝えるとき、両方Aで、とは言わなかった。Aがひとつ、Bがひとつ、と言った。
聞いたのではない。渡しただけである。渡しただけで、何かが変わったかは、まだ分からない。
