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百七枚
大正十一年七月、川端康成は二十二歳だった。
その夏、伊豆の湯ヶ島温泉に滞在し、「湯ヶ島の思い出」と題する草稿を書いた。百七枚である。
滞在先は、狩野川の川端に立つ湯本館という宿だった。
四年後の大正十五年、二十六歳のとき、川端はこの草稿の一部を書き直した。
書き直されたものが『伊豆の踊子』である。
書いた時期と、作品になった時期のあいだに、四年ある。
四年のあいだ、百七枚は草稿のままそこにあった。
十年、通う
湯本館の記載によれば、川端は大正十二年から昭和二年まで、毎年この宿を訪れている。
大正十三年に大学を卒業したあとの三、四年は、一度の滞在が「半年あるいは一年以上に長びいた」という。
半年。あるいは一年以上。
旅ではない。生活である。
宿に生活の場を置く書き手は、当時めずらしくなかった。ただ、同じ宿に十年というのは、選び直さなかったということでもある。
なぜ湯ヶ島だったのか。その理由は、記録として手元にない。
分からないことは、分からないまま置く。
分かっているのは、十年通ったという事実と、その十年のあいだにここで書かれた草稿が、のちに一篇の小説になったということである。
十年、同じ谷に通った。通ったという事実だけが残っている。
部屋は残っている
湯本館には、川端が使った部屋が当時のまま保存されている。宿ではその部屋を「川端さん」と呼んでいる。
部屋の広さは、公式の記載にない。ここでは書かない。
なお、この湯本館は日本秘湯を守る会の系統に属する宿で、本記事の後半で紹介する宿とは別の宿である。
川端が泊まったのは湯本館であって、以下に挙げる宿ではない。
その区別を、はっきりさせておく。
湯ヶ島という谷
湯ヶ島温泉は、伊豆半島の内陸にある。海ではなく、谷である。
修善寺の駅からバスで約三十分。狩野川に沿って遡っていく道になる。
伊豆の温泉地というと、熱海や伊東のような海沿いを思う人が多い。湯ヶ島は違う。
山が両側から迫り、川が下を流れている。
『伊豆の踊子』の道行きは天城越えを含む。その天城の北側の入口にあたるのが、この谷である。
いま泊まれる宿
同じ湯ヶ島温泉に、谷川の湯 あせび野という宿がある。全十八室。
繰り返すが、川端が滞在した宿ではない。同じ温泉地にある、別の宿である。
事実を書いておく。
食事は、夕食・朝食とも個室で供される。他の客と席を共にしない。
湯は源泉百パーセントのかけ流しで、大浴場が二つ、露天が五つ、貸切が四つある。貸切のうちには、うたせ湯や洞窟ジャグジーを備えたものがある。
泉質は単純温泉と、カルシウム・ナトリウム硫酸塩泉。
客室は三種類で、階によって呼び名が変わる。一階が谷の蔵、二階が山の蔵、三階が木の蔵。
修善寺駅の五番乗り場からバスで約三十分、「湯ヶ島」バス停で降りる。バス停からは宿の無料送迎がある。
チェックインは十四時三十分から十七時まで。幅が狭い。チェックアウトは十時三十分と早い。
到着が遅くなる予定なら、この宿は向かない。
一人泊の可否は公表されていない。予約前に確認したほうがいい。
四年と、十年
川端が草稿を書いてから作品になるまで四年、この谷に通った期間が十年。
どちらも、急いでいない数字である。
十年通って、書いたものが一篇になる。その一篇は、いまも読まれている。
湯ヶ島の谷は、いまも同じ場所にある。川の水音も、たぶん同じように鳴っている。
同じかどうかを確かめる方法は、ない。
