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私用
「現場?」
自販機の前で、同期が言った。
「違う」
「じゃあ何しに」
共有の予定表の、来週の金曜に、俺の休みが入っている。金曜を休んで、土日につなげる。遠征の組み方だ。
有給が消えるから、と答えた。九月三十日で、一日消える。入社してから、有給が余ったことは一度も無かった。足りなくなった年なら、何度もある。
同期は、ふうん、とだけ言った。俺は、まだ冷たいのしか並んでいない自販機で、水を買った。
申請の画面には、事由の欄がある。任意、と小さく書いてある。いつも私用と打ってきた。前は、中身がいつも現場だった。
今回も、私用と打った。
和モダン
箱根にした。
新宿から一本で行ける。行ったことは無い。地図のアプリで引いても、履歴に一件も出てこない。
一泊二食で、一万円台だった。箱根は、もっと高いものだと思っていた。
部屋の名前がいくつか並んでいた。和モダン、というのが、いちばん遠征のホテルに近い気がして、それにした。
押したら、取れた。当落は無かった。
Cコース
金曜の昼、新宿でロマンスカーに乗った。乗って、すぐ寝た。起きたら箱根湯本だった。寝ていたので、何分かかったのかは知らない。
駅の向こう側から、旅館組合の巡回バスに乗る。オレンジ色の小さいバスで、Cコース、塔ノ沢線。片道二百円で、車内におつりの用意は無いという。百円玉を二枚、財布から出して握っていた。遠征で覚えたのは、だいたい小銭の出し方だ。
五分で降りた。

先着
帳場で、モバイルバッテリーは館内では使えません、と言われた。貸し出しがあります、とも。
あとで、と言った。遠征で、あれを使わなかった夜は無い。
大理石の貸切風呂は無料で、夕方から夜の分は当日の先着順だという。鍵を受け取る前に、空いている枠を聞いた。二十一時半を取った。
部屋は三階で、エレベーターは無い。階段を上がった。
部屋に入って、窓を探した。
無かった。壁と、天井と、畳。八畳。
電気を消してみた。何も無くなった。
客電が落ちるときと同じだった。何千人かが一度に息を吸って、誰にも何も見えないのに全員が同じ一か所を向いていて、そこへ最初の光が来るまでの二秒か三秒が、たぶん俺がいちばん長く生きている時間で、あの二秒のために新幹線に乗って、有給を使って、物販の列に四時間並んで、並んでいるあいだに次の遠征の宿を取って、
電気をつけた。
鞄を開けた。遠征の鞄のまま来た。底から、双眼鏡が出てきた。
窓の無い部屋で、双眼鏡を持っている。
鞄に戻した。
夕食には、七十分の飲み放題が付いていた。二杯飲んだ。三杯目を頼むかどうかで、七十分のうちの何分かを使った。
部屋に戻って、布団を自分で敷いた。そういう部屋だった。二十一時半まで、まだ一時間以上ある。スマホは九パーセント。
電気を消して、横になった。少しだけ、のつもりだった。
大理石
目が開いた。
暗い。夜の暗さではない。部屋の暗さだった。
スマホを押した。長く押しても、画面は黒いままだった。
何時なのか分からない。二十一時半がまだ先なのか、もう過ぎたのか。窓が無いので、外に聞くこともできない。
テレビの黒い画面に、布団と俺が小さく映っていた。点けないで、廊下に出た。明るかった。
階段を下りた。下から、上がってくる足音があった。
「いま、何時ですか」
聞いてから、相手を見た。男だった。男は黒い手帳を右手に持ち替えて、左の手首を返した。
「五時十二分です」
それから少し置いて、
「この時計が合っていれば」
と足して、上がっていった。
合っていなかったら、と思った。確かめる物は、手元に何も無い。
二十一時半は、八時間近く前に過ぎていた。取った枠を、空けた。現場なら、空席だ。
朝は予約なしで入れる、と帳場で言われていた。大理石の風呂の戸を開けた。誰もいない。
湯に入った。縁の石が、背中に冷たい。浸かっているところは温かくて、湯から出ている背中の細い帯だけが冷たい。
首を回すと、左で一度鳴った。もう一度回した。二度目は、静かだった。
時計が無いので、頭の中で曲を流した。最後に行った現場の、一曲目。四分十一秒。二曲目、三分五十八秒。
三曲目のイントロのあたりで、自分の息の音のほうを聞いていた。
そこで、出た。
部屋に戻って、スマホをコンセントに挿した。画面が点くまで、壁の前に座っていた。
月曜
自販機の前で、また同期と並んだ。
「金曜、何してたの」
「寝てた」
「どこで」
「箱根」
「箱根まで行って?」
「箱根まで行って」
