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一式
見積もりの三行目を消した。「ディレクション費 一式」。金額はそのまま下の行へ足したので、合計は動かない。一行減ったぶん、頁の白が増える。
新しい先方との打ち合わせは、渋谷の貸し会議室で四十分だった。帰りぎわ、若いほうが名刺入れを仕舞いながら言った。志乃さんって、おひとりでやってらっしゃるんですよね。はい。じゃあ、そのぶんお安くできますよね。
会釈をした。若いほうは名刺入れをもう一度開けて、そのまま仕舞い直した。
エレベーターは十四階から一階まで、どこにも止まらずに下りた。十月の初めで、ビルを出ると風が首の後ろに入った。
夜、見積もりをもう一度開いて、三行目のあった場所を見た。白は行と行のあいだに散って、どこにも溜まっていない。四か月前に一行削って、理由は書かずに送って、それが通った。通ったので、次も削った。いまは作りながら削っている。
六本
予約の画面を開いて、人数を一名にした。数が減るのを、去年の春から見ている。減ったあとに何が残るかで、その宿が誰のために値段を作ったかが出る。
伊豆高原の宿は六室で、全部が離れだった。棟が六つ建っている。一名にしても、プランは六本のままだった。
上から読む。旬の懐石。静岡育ちのステーキ。伊勢エビ。金目鯛の煮付け。アワビ。標準が三万九千八百円から、あとの四本が四万二千八百円から。
いちばん下の一本だけ、名前の付き方が違った。「大人のおこもり一人旅」。名前に入っている魚は四本目と同じ金目鯛で、三万五千三百円からだった。
同じ魚の名前が付いていて、七千五百円下がる。上の五本は名前に料理が入っている。この一本だけ、料理より先に人数が入っている。
一人ぶんを安くするなら、どこかの行を引くことになる。引いたのなら名前に出るはずだ、と思った。名前は四本目と同じ魚のままだった。
その一本を取った。
坂
東京から特急で、乗り換えなしの二時間だった。伊豆高原の改札を出ると、タクシーが一台だけ残っていた。八分です、と運転手が言った。
ダッシュボードに、みかんが二つ並べてある。まだ青い。
上り坂で、エンジンの音が一段低くなった。それきり変わらなかったので、ずっと上っていたのだと思う。門の前で止まったとき、街の音のほうが先に無くなっていた。

鍵
案内された棟までは、外を歩いた。全部が離れなので、部屋へ入るのに一度外へ出る。
渡された鍵には木の札が付いていた。面取りが、角ごとに少し違う。手で削ったものは、削った人の持ち方が角に残る。
先に立った人が離れたあと、道の途中に男が一人、立ち止まっていた。鍵の札を手のなかで裏返して、表を見て、また裏返した。それから来た方向へ二歩戻って、別の道へ入っていった。わたしは自分の札を親指でなぞった。面取りの浅いほうが、表だった。
順
部屋の湯は外にあった。風呂の欄には、六名が入れる広さです、と書いてある。加水と加温をして、循環ろ過をしている、とも同じ頁にある。
入った。足を伸ばす。それから、端まで行ってみた。六名ぶんを、一人で往復した。
木が切れたところに海があった。十月の海は、朝の色を昼まで持ち越したような青で、境目だけ白い。伊豆大島を望む、と部屋の欄にあった。あれがそうなのだと思う。

夕食は部屋に来た。運んできた人は、盆を畳に置いてから、一品ずつ卓へ移した。手前から奥へ、左から右へ。器の縁に指がかからない持ち方をしている。
移し終えて、その人は窓のほうを見た。今日は大島が出ていましたね、と言って、下がった。わたしは大島の話をしていない。
金目鯛が出た。四本目の名前にも同じ魚が入っている。何がどう違うのかは、この膳からは読めない。
食べながら、同じことが六棟で起きているのを考えた。盆を畳に置いて、一品ずつ移す。それが六回ある。順番のどこかに、わたしがいる。
〇の行
五時半に目が覚めた。湯の落ちる音が、夜のあいだ止まっていない。
朝の膳も、同じ順で来た。門まで歩いたのは十一時だった。
帰りの電車で、見積もりを開いた。三行目をまた消した。
消したあと、その行の名前だけを戻して、金額の欄に〇と書いた。「ディレクション費 〇」。合計は変わらない。頁は一行ぶん長くなる。
送るかどうかは、まだ決めていない。窓の外で海が一度切れて、また出た。
