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三十という数
予約の画面に、露天風呂が三十か所と書いてあった。三十。私は最初、誤植を疑った。十二室の宿である。客室ごとに風呂があるとして十二。残りが十八。十八を、十二室で分ける。一室あたり一・五。計算して、意味のない計算だと気づいた。風呂は割り当てられるものではない。それでも計算した。数字を見ると、私は割る。
滞在は一泊である。到着が十五時三十分から十八時、出発が十一時。仮に十六時に着いて、十一時に出るとする。十九時間。うち睡眠を六時間として、十三時間。一回の入浴を三十分とすると、二十六回。移動と食事と着替えを引くと、現実には十回に届かない。三十のうち、十。三分の一である。三分の一という数字を出したところで、私は画面を閉じた。閉じてから、予約した。
外輪山
熊本の空港から、車で一時間三十分と聞いた。阿蘇の外輪山を越える。越える、という言い方が正確かどうかは分からないが、地形としては、一度上がって、一度下りた。上がりきったところで、視界が開けた。草の斜面が、地平まで続いていた。木がない。木がないのは、火山だからか、人が焼いてきたからか、私は知らない。知らないまま、しばらく見ていた。
黒川温泉の街を通った。人が歩いていた。手ぬぐいを持って、湯を巡っているらしい。車はその街を抜けて、さらに十分走った。
竹
門を入ると、竹だった。竹林の中に、道が通っている。両側から竹が寄っていて、上のほうで交差している。風があると、竹は音を立てる。葉の音と、幹の擦れる音が別々にある。葉の音は連続していて、幹の音は不連続だった。不連続なほうを、私は数えかけた。十まで数えて、次が来なかった。来ないので、数えるのをやめた。

離れが十二棟あるという。約五千坪に点在している。歩いていて、他の棟が見えない位置がある。設計だと思う。設計であることを、私は変数として書き出せる。書き出せるが、書き出したところで、この竹の音は再現できない。同じことを、由布院でも考えた。考えたことを覚えているのに、答えは出ていない。
六つ
湯に入った。部屋に露天が付いていた。それが一つ目。貸切の風呂は三つあって、四十五分単位で使う。八時から二十四時まで。そのうち二つに入った。三つ目、四つ目。大きい露天が敷地の奥にあり、そこに二つ入った。五つ目、六つ目。

六つで、私は湯から出た。体が温まりすぎたからではない。湯から上がって、部屋の畳に座ったとき、次の湯へ行く気にならなかった。行けば入れる。時間はある。行かなかった。三十のうち六つに入り、二十四に入らなかった。入らなかったほうが、多い。
囲炉裏
夕食は、部屋の囲炉裏で出た。全ての客室に囲炉裏があると聞いた。火の前に座って、魚が焼けるのを待った。焼けるまでの時間は、決まっていない。火の強さと、魚の厚みと、その日の湿度による。給仕の方が、時々来て、串の向きを変えていかれた。変える間隔が、一定ではなかった。一定でないのは、見て決めているからだ。
私の仕事では、そういう判断を「属人的」と呼ぶ。属人的な工程は、標準化の対象になる。標準化できれば、誰がやっても同じ結果が出る。誰がやっても同じ結果が出る焼き魚を、私は何度も食べてきた。まずくはない。まずくはないが、今日の魚は、それとは違った。違いを説明する言葉を、私は持っていない。持っていないことを、私はもう十一回、手帳に書いている。
火が落ちる
食事のあと、囲炉裏の火が落ちていくのを見ていた。薪が崩れて、赤いところが灰に覆われて、また風で赤くなる。規則がない。いや、規則はある。物理法則がある。酸素の供給量と、燃焼の速度と、灰の断熱。説明はできる。説明はできるが、次にどこが崩れるかは予測できない。説明できることと、予測できることは違う。私は長いあいだ、その二つを同じものとして扱ってきた。同じものとして扱うと、仕事は速くなる。速くなるが、火の前で退屈しなくなる、ということはない。私は退屈していなかった。二時間近く、火を見ていた。
入らなかった二十四
朝、もう一度部屋の露天に入った。七つ目、と数えかけて、やめた。これは昨日の一つ目と、同じ風呂だ。新しくは、ない。入った風呂は、六つのままだった。数え間違えかけたことを、私は憶えておくことにした。私は、数を間違えない人間のはずだった。
十一時に発った。送迎で黒川温泉のバス停まで出て、そこからタクシーで空港へ向かった。外輪山を、今度は逆向きに越えた。上がりきったところで、また草の斜面が見えた。行きと同じ場所のはずだが、光の角度が違うので、色が違った。同じ場所である、ということを、私は確認できない。確認する方法はある。座標を照合すればいい。照合しなかった。
空港のロビーで、手帳を開いた。後ろから七頁目。十一語のあとに、書いた。入らなかった二十四。書いてから、これも語彙ではないと思った。思ったが、消さなかった。
