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十二で止まっている
手帳の後ろから七頁目に、いま十二ある。十の語彙と、語彙でないものが二つ。撮って、消す。入らなかった二十四。四月に集め始めて、九か月。新緑から始まって、いまは秋だ。
「非構造化データ」というフォルダ名は、まだ消していない。消せば、これはただのメモになる。予定のない、いつか構造化する見込みのない、捨ててよいもの。九か月、消さずにきた。消さない理由を、私はいくつも作れる。作れるが、作った理由のどれも、本当ではない気がしている。本当は、消したくないだけだ。
消したくない、という状態を、私は「保留」と呼んできた。判断材料が揃うまで待つ、という意味で。判断材料は、揃わない。揃わないものを待ち続けるのは、保留ではない。別の名前があるはずだが、私はまだ、その名前を持っていない。
九月の末、鹿児島に宿を取った。古民家を移築した宿だという。八室。移築。由布院でも、出雲でも、私はこの言葉に会っている。会うたびに、同じことを考える。同じことを考えて、答えが出ない。答えが出ないので、また同じような宿を選ぶ。

移された家
空港から、車で十五分だった。近い。北海道の六十分に比べれば、はるかに近い。近いのに、着いた場所は山あいだった。八室が、離れとして点在している。それぞれが、もとは別の場所にあった古民家だという。移築の経緯は、宿の説明に詳しくは書いていない。書いていないので、私も断定しない。
自分の棟に入った。柱が黒い。梁も黒い。囲炉裏の煤だと思う。この黒さは、ここで生まれたのではない。もとの家で、何十年か、火を焚いた結果だ。それを、そのまま運んできた。運ぶとき、この黒さは記録されただろうか。されないだろう。柱の寸法は記録される。継手の位置も記録される。しかし、黒さは仕様書に書けない。書けないものを、運んできた。書けないものが、この部屋にはいくつもある。
地鶏
夕方、外で鶏の声がした。地鶏を飼っているらしい。夕食に、その鶏の料理が出るという。刺身もあると聞いた。鶏の刺身を、私は食べたことがない。食べたことのないものを、私は普段、避ける。避ける理由は、結果が予測できないからだ。うまいかまずいか分からないものに、一食を使うのは非効率である。そう判断してきた。
今日は、食べた。うまかった。うまかったと書いて、私はペンを止めた。うまい、は評価語である。手帳に集めてきた語彙は、評価語ではなかった。新緑。川音。灯。事実を指す言葉ばかりだった。うまい、は違う。違うが、書いた。
全室、かけ流し
湯は、部屋に付いていた。全室の客室風呂が、百パーセントの源泉かけ流しだという。大浴場も、貸切も、すべて源泉百パーセント。部屋の湯に入った。炭酸水素塩泉。効能に、神経痛・胃腸病・美肌とある。効能というのは、面白い書き方だ。効くと書いていない。効能、とだけ書く。効くとは断定せず、効くとされる範囲を示す。私の仕事にも、似た言い方がある。「相関が見られる」。因果とは言わない。相関とだけ言う。言い方を狭めることで、嘘にならないようにする。この湯も、そうやって書かれている。
湯に浸かって、由紀のことを、久しぶりにまっすぐ思い出した。彼女は、効能書きを読む人だった。宿に着くと、まず壁の効能書きを声に出して読んだ。神経痛、リウマチ、と。読んで、笑っていた。何がおかしいのか、私は聞かなかった。聞けば、説明が返ってくる。説明が返ってくると、私はそれを分析してしまう。分析すると、笑いが消える。だから聞かなかった。聞かなかったことを、私はいま、思い出している。

フォルダ名
夜、手帳を開いた。後ろから七頁目。十三の項目。そのページの見出しに、「非構造化データ」と書いてある。私は、ペンを当てた。九か月、当てては引いてきた。今夜も引くのだろうと、当てながら思っていた。引かなかった。消した。「非構造化データ」の七文字を、線で消した。
消したあとの余白に、何と書くか、しばらく考えた。考えて、何も書かなかった。名前のないページになった。名前のないものは捨てる、というのが、私の規則だった。その規則で、私はこのページを捨てなかった。規則のほうが、間違っていたのかもしれない。分類できないものを、私は分類できないまま持っていた。
名前のないページ
朝、鶏の声で目が覚めた。昨日聞いた声と、同じ鶏かどうかは分からない。分からないが、同じ調子だった。朝食に、自家菜園の野菜が出た。採れたての、と説明された。採れたて、という言葉も、事実を指す言葉だ。チェックアウトは十二時だった。他の宿より遅い。急がなくていい、ということだ。
十二時まで、私は部屋にいた。手帳を、もう一度開いた。名前のないページを見た。十三の項目が、名前のないまま並んでいる。十四語目を、書くかもしれない。書かないかもしれない。どちらでもいい、と初めて思った。
シャトルタクシーで、空港へ向かった。片道三千円だと、乗るときに言われた。三千円、と私は繰り返さなかった。繰り返して確認する癖が、その朝は出なかった。出なかったことに、空港に着いてから気づいた。
