宿と小説の読みもの、余白
RECORD № 031

冷たい水を、温めて使う

計測をやめられない人間の、漸進的な手放し方

会社を立ち上げて、燃え尽きて、いま手放そうとしている。睡眠も、心拍も、生産性も、十年以上測ってきた。測るのをやめる方法が分からない。少しずつ手を離す以外に、思いつかない。

大輔という語り手について →

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冷鉱泉

宿の説明に、冷鉱泉と書いてあった。冷たい鉱泉。源泉の温度が二十五度未満のものを、そう呼ぶらしい。そのままでは、湯として使えない。だから加温する。源泉が百パーセントであっても、温度は足す。かけ流しではない、とも書いてあった。書いてある。隠していない。僕は、その二行を三回読んだ。

去年の僕なら、この宿を候補から外していた。理由は明確だ——かけ流しか否か、という一つの指標で湯を選んでいた。判断の根拠を、僕は説明できる。説明できるが、僕自身が湯の質を評価できるわけではない。評価できないものを、二値の指標で代替していた。

七月の第三週、宿を取った。会社を畳んで、十七か月になる。有給という言葉は、もう僕の予定表にない。リングは六月から外していて、机の上に置いてある。充電はしていない。妻が「その指輪、外したら?」と言ったのが、去年の七月だ。外すのに、一年かかった。

送迎

鳥羽の駅で、送迎の車を待った。事前予約制だと書いてあったので、三日前に予約してある。車は五分ほど遅れて来て、運転手の方が、道が混んでいまして、と謝られた。大丈夫です、と僕は答え、答えてから、五分の遅れを自分が計測していたことに気づいた。指輪を外しても、計測はしている。道具がなくなっただけで、癖は残る。

待つあいだ、同じ車を待つらしい男が、少し離れて立っていた。地味な上着に、片手の黒い手帳。時刻表も時計も見ず、手帳に何か書いている。書いては、湾のほうを見て、また書く。僕はつい、その手が一分あたり何字書くかを見積もりかけて、やめた。あの男が書いているのは、たぶん、字数で測るものではない。

車で十五分ほど走って、宿に着いた。

離れ、十棟

全部で十室、すべて離れの棟になっているという。自分の棟に荷を置くと、鞄の底から去年のどこかの宿の歯ブラシが袋のまま出てきて、また戻した。窓の外に、鳥羽湾があった。夏の午後の海は光が強すぎて色が飛んでいたが、しばらく見て目が慣れると、色が戻ってきた。青ではない。灰色に近い緑だった。

画像はイメージです

部屋に付いた露天に入った。温度はちょうどよかった。ちょうどよくて当然だ、加温しているのだから、狙った温度が出せる。自然に湧いた湯は、狙えない。四十七度なら四十七度で、そのまま使うか、冷ますか、混ぜるかしかない。どちらが良いのか、僕には決められなかった。決められないまま、湯に浸かっていた。

加温という工程

画像はイメージです

夕食は部屋に来た。個室のダイニングも選べるという。食べながら、加温のことを考えていた。冷たい水が湧いている。そのままでは入れない。だから温める。温めるには、燃料が要る。設備が要る。管理が要る。その工程を、宿は説明文に書いている。書かなければ、たぶん誰も気づかない。書けば、僕のような人間が「かけ流しではない」と判断して外す。それでも、書いてある。

そのままでは使えないものを、手を加えて使う。それを僕は、ずっと不純だと思っていた。会社をやっていたころ、僕が探していたのは「素の状態で強いもの」だった。手を加えなくても伸びる指標。放っておいても回る仕組み。手を加え続けないと維持できないものは、弱いと判断していた。その判断で、僕は自分の会社を畳んだ。畳んだあとに、妻との時間が残った。

七年、僕は彼女に何も加えなかった。加えなくても続くと思っていた。実際、続いている。続いているが、温度は下がった。温めるには、燃料が要る。設備が要る。管理が要る。要ることを、僕は知らなかったのではない。知っていて、コストとして計上していなかった。それだけのことだ。それだけのことに、十七か月かかった。

朝、もう一度露天に入った。朝の湾は、昨日より色があった。光の角度だ、と分かっている。分かっているが、色があるほうが、いい。

十一時に発った。送迎で駅へ戻る途中、運転手の方が、今日は海が凪いでますね、と言った。そうですね、と僕は答え、答えてから、凪と時化の違いを自分が目で判別できないことに気づいた。判別できないのに、そうですね、と答えた。以前なら、それを不誠実だと思っただろう。今日は、思わなかった。

新幹線の座席で、妻にメッセージを打った。課題、と打ちかけて、消した。今夜、外で食べないか、と書いた。送ってから、返信が来るまでの時間を、測らなかった。

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Field Notes

季さら別邸 刻〜TOKI〜

Overview

三重県
Region
三重県鳥羽市安楽島町(鳥羽湾)
Access
近鉄鳥羽駅より無料送迎あり(事前予約制)。伊勢自動車道終点 鳥羽ICより車で約15分
Price
予約サイトで確かめた六万円台半ば〜(1名1室・夕朝食付) 2名1室での実測三万円台半ば〜(2名1室の1名分・夕朝食付) 公開の情報から中〜高価格帯(2名税込 朝食付五万円台後半〜)

Facility

Room
全10室。和洋室で全室が離れ棟・全室露天風呂付き。温泉内風呂付客室、オーシャンビュー客室あり
Meal
部屋食または個室ダイニング

宿タイプ

  • 温泉旅館
  • 離れの宿
  • 露天風呂付き客室
  • 部屋食の宿
  • 海辺の宿

向いている人間

  • 全室離れ・全室露天風呂付きの構成で、他の客と動線が交わらない滞在を求める人
  • 食事を部屋または個室で取りたい人
  • 鳥羽湾の海景を客室から見たい人
  • 駅から送迎で入れる宿を求める人

向いていない人間

  • 源泉かけ流しを条件にする人(源泉100%だが加温)
  • 古い建物の来歴を求める人(2019年開業)
  • 18時までにチェックインできない人
  • 公共交通で自力到達したい人

予約前の注意事項

温泉は源泉かけ流しではなく、源泉100%を加温している。泉質は冷鉱泉。近鉄鳥羽駅からの無料送迎は事前予約制。チェックインは15:00〜18:00、チェックアウトは11:00。一人泊の可否は明記がないため予約前に確認が必要。料金は変動する。

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