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既定値
会社を売却して、十九か月が経った。リングは相変わらず机の上にある。充電はしていない。
先月、妻に外食に誘うメッセージを送った。既読がついてからの返信までの時間を、測らなかった。あれから五か月、また誘った。今回も測らなかった。二度目だと、一度目より少しだけ簡単だった。
宿を探していて、一休.comの検索窓が、最初から「大人一名」になっている宿を見つけた。他の宿は「二名」が既定値で、一人だと自分で数字を変える必要がある。この宿は、変える必要がなかった。既定値が、一人だった。
川棚
新幹線を乗り継いで、下関まで五時間近くかかった。在来線に乗り換え、川棚温泉駅で降りた。無人に近い駅だった。タクシーで五分。
車内で、スマートフォンのバッテリー残量を見た。四十二パーセント。以前なら、着く前に充電を探していた。今回は、見ただけで、何もしなかった。
さんろじ
宿は全八室、すべて離れだという。一日八組限定、十二歳未満の宿泊は不可。公式サイトには「恋人やご夫婦で」という文言があった。妻はいない。それでも、検索窓が最初から一人分だったことを思い出すと、居心地の悪さは半分になった。

個室の食事処で、隣の個室から話し声がかすかに聞こえた。夫婦らしい二人だった。話の内容は聞こえなかった。聞こえないくらいでちょうどいい距離だった。
廊下で、スマートフォンを片手に、画面を見ずに歩いている男とすれ違った。持っているだけで、見ていなかった。何のために持っているのか、僕には分からなかった。
ふぐ
夕食は個室で出た。下関ふぐを使った会席だという。一品ごとの原価を、頭の中で計算しかけて、やめた。KPIでもランウェイでもない食事に、値段以外の意味があることを、まだうまく言葉にできない。

露天風呂に入った。離れの専用風呂なので、誰も来ない。誰も来ないことを、寂しいと感じるか、快適と感じるか、その日の気分で揺れた。今日は、快適の方に寄った。
測らない
朝、もう一度専用の露天風呂に入った。夜より湯気が薄く見えた。
十一時前に発って、川棚温泉駅からタクシー、在来線、新幹線と乗り継いで、東京へ戻った。
車内で、妻にメッセージを送った。「ふぐ、美味かった」とだけ。既読がつくまでの時間を、また測らなかった。測らないことが、二度目になった。二度目は、一度目より簡単だった。
検索窓は、最初から「大人1名」だった。特別扱いでも例外扱いでもなく、そこにいることになっていた。
