宿と小説の読みもの、余白
RECORD № 063

四分六分

計測をやめられない人間の、漸進的な手放し方

会社を立ち上げて、燃え尽きて、いま手放そうとしている。睡眠も、心拍も、生産性も、十年以上測ってきた。測るのをやめる方法が分からない。少しずつ手を離す以外に、思いつかない。

大輔という語り手について →

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深い眠り

「それ、まだ着けてるんだ」

妻が僕の左手首を見て言った。前のより一回り小さい。二月に買い替えた。心拍変動の取得間隔が五分から一分になって、皮膚温も取れる。

「前のは外したよ」

「外して、買ったの」

課題は睡眠の質だ。深い眠りの時間が、去年の平均より二十二分短い。原因を分解すると、就寝時刻のばらつき、寝室の温度、夕方のカフェイン、運動量——ここまでが僕の書ける範囲で、その先が書けない。会社を売ったあと、僕はこの構文で自分を運用してきた。課題があって、要因があって、施策がある。施策の欄だけが、去年の秋から空欄のままだ。

スコアは六十四。六十四という数字が何を意味するのか、僕は説明できる。説明できるが、六十四で目が覚めた朝の身体が、六十八の朝とどう違うかは、分からない。

その夜、青森の宿を調べた。海抜九百メートル。二〇一三年の二月二十六日に、そこで五百六十六センチの積雪が観測されている。気象庁が雪を測っている全国の地点で、いちばん深い記録だという。

僕はその数字を三回読んだ。五百六十六センチ。僕の身長の三倍と少し。

十和田湖行

新青森から、十和田湖行のバスに乗る。一時間二十分。冬のあいだ、峠のほうは全面通行止めになっていて、十和田湖へは行けない。行けないのに、行き先の表示は十和田湖のままだった。

市街を抜けると、道の両側が壁になった。除雪した雪を、道の外へ積み上げたものだ。壁はバスの窓より高い。窓の上に空が細く残って、その細さのぶんだけ、車内が暗い。

僕は窓の外の高さを測ろうとした。基準になるものが無い。標識も、家も、壁の向こうにある。

画像はイメージです

乗客は七人だった。途中で二人降りて、五人になった。降りた場所に建物は見えなかった。

ヒバ千人風呂

宿は雪に埋まっていた。埋まっている、という言い方は正確ではない。一階が雪の下にあるように見えるが、実際は雪のほうが持ち上がっている。玄関までの道は、両側を切り立った雪で挟まれた溝だった。

浴室は百六十畳あると聞いた。総ヒバ造り。混浴で、女性だけの時間が朝と夜に一時間ずつある。

入ると、木の匂いが先に来た。酸性の湯で、硫黄の匂いもする。天井が高く、湯気が上がりきらずに梁のあたりで層になっていた。

浴室の中に、湯が四つある。名前がそれぞれ違う。熱の湯。冷の湯。湯滝。そして、四分六分の湯。

僕は四分六分の湯に入った。名前の意味が分からなかったからだ。

湯は熱くも冷たくもなく、入って三分で、僕は自分の呼吸が長くなっているのに気づいた。それから、腕が震えた。デバイスだ。湯に浸かっているだけなのに、腕のデバイスが震えて、運動を検出しましたと出た。

心拍が上がっている。上がる理由はある。湯温と外気の差、酸性の湯、標高。要因は分解できる。分解できるのに、僕は画面を見るのをやめて、湯の底に足を伸ばした。ヒバの板が、思っていたより柔らかかった。

上がるとき、宿の人が桶を運んでいた。四分六分の名前の由来を聞いた。

「諸説あるんですよ」

「どの説が本当ですか」

その人は桶を持ち替えて、少し笑った。

「どれも本当なんじゃないですかね。昔から、そう呼んでるんで」

四と六。何かが四で、何かが六なのだと思う。分母が書かれていない。分母の無い比が、名前のまま使われている。

湯治棟

僕の部屋は湯治棟の六畳で、トイレと洗面は共同だった。一泊二食で一万三千七百五十円。旅館棟に泊まると、二万円を超える。

同じ湯に入る。同じ雪の下にいる。寝る場所が違うだけで、七千円ぶん違う。七千円が何を買っているのかを、僕はしばらく考えた。

夕食は食事処で出た。量は控えめで、日替わりの鍋が付いた。健康に配慮した、と品書きに書いてある。鍋には大根と、鶏と、名前の分からない葉物が入っていた。

離れた卓に、一人で食べている男がいた。箸を置く間隔が一定だった。一口、置く、一口、置く。僕はそれを七回まで数えて、数えている自分に気づいて、汁椀に手を伸ばした。

画像はイメージです

部屋に戻って、ペットボトルのラベルを剥がした。癖だ。剥がしたラベルは、丸めて鞄に入れた。靴下は左から履く。これも昔からで、理由は知らない。

九時に消灯した。窓の外は白い。雪が明かりを返しているので、暗くならない。

雪の高さ

朝、スコアは五十八だった。滞在中いちばん低い。アプリは原因の欄に「高度」と表示していた。デバイスが原因を説明してくる。説明は正しい。

七時に湯へ行った。窓の外に、雪の面が浴室の高さで水平に広がっていた。人が一人、その上を歩いていく。膝から下が見えない。

朝食のあと、宿の人に、いま積雪が何センチあるのかを聞いた。

「去年より多いですね」

数字ではなかった。その人は続けて、去年は下屋の樋まで来ましたよ、と言った。僕は樋を探した。雪の面より下にあるはずだった。

帰りのバスが来た。乗ったのは四人だった。

窓の外は、また壁だった。行きに測れなかった高さだ。僕は手のひらを窓ガラスに当てた。ガラスが冷たい。手のひらの上端に壁のてっぺんを合わせて、目を細めて、自分の背丈がそこに何回入るかを見た。

三回と、少し。

バスが動きはじめて、壁が流れ、手のひらの形の曇りが、ガラスに残った。

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Field Notes

酸ヶ湯温泉旅館

Overview

青森県
Region
青森県青森市(酸ヶ湯温泉・八甲田)
Access
JR青森駅から十和田湖行のJRバスで約70分、『酸ヶ湯温泉前』下車。新青森駅からは約1時間20分。宿泊客限定の無料送迎バスがあり、予約が要る。車は青森中央ICから約40分
Price
予約サイトで確かめた一万円台半ば〜(1名1室・夕朝食付) 2名1室での実測一万円台前半〜(2名1室の1名分・夕朝食付) 公開の情報から中価格帯(1名1室・夕朝食付で税込一万円台半ば〜。湯治棟6畳〈トイレ・洗面共同〉の【湯治食】プランが一万円台半ば〜一万円台後半、湯治棟3号館6畳〈トイレ・洗面付〉の【スタンダード料理】が一万円台後半〜二万円台半ば、旅館棟イ棟の【湯治食】が二万円台前半〜二万円台後半)

Facility

Room
旅館棟(1号館・イ棟・7号館)と湯治棟(2号館・3号館・5号館・6号館)に分かれる。湯治棟の6畳はトイレ・洗面が共同、3号館の6畳はトイレ・洗面付。総客室数は掲載元で食い違う(公式139部屋 / じゃらん・楽天130室)
Meal
朝夕食付。湯治食は旅館食より量を控えた家庭料理で、2026年4月からは日替わりの『酸ヶ湯健康鍋』を添える。旅館棟は膳または椅子テーブル席で朝食はバイキング、湯治棟は食事処

宿タイプ

  • 温泉旅館
  • 湯治宿
  • 老舗宿

向いている人間

  • 1泊2食を1名1室1万円台前半から選びたい一人客
  • 160畳のヒバ千人風呂で4つの源泉を一つの浴室で使い分けたい人
  • 真冬の八甲田へ公共交通だけで行きたい人(JRバスは青森駅から通年)

向いていない人間

  • 混浴に抵抗がある人(ヒバ千人風呂は混浴で、女性専用は朝夕の8時〜9時の各1時間のみ)
  • 夜に湯へ入りたい人(千人風呂は18時まで、玉の湯は17時まで)
  • 客室にトイレが要る人(湯治棟の6畳はトイレ・洗面が共同)
  • 十和田湖側から入りたい人(傘松峠は12月中旬〜3月31日に全面通行止め)

予約前の注意事項

ヒバ千人風呂は混浴で、女性専用は午前8時〜9時と午後8時〜9時の各1時間。利用時間は7:00〜18:00(受付17:30)、玉の湯は9:00〜17:00(受付16:30)で、夜通しは入れない。湯治棟の6畳はトイレ・洗面が共同。髭剃りの備えはなく、作務衣は有料880円。入湯税150円が別途かかる。冬季は傘松峠が12月中旬から3月31日まで全面通行止めで、期間中の夜間は雲谷ゲートが閉まる。総客室数は掲載元で食い違う(公式139部屋 / じゃらん・楽天130室)。料金は時期とプランで変わる。

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