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深い眠り
「それ、まだ着けてるんだ」
妻が僕の左手首を見て言った。前のより一回り小さい。二月に買い替えた。心拍変動の取得間隔が五分から一分になって、皮膚温も取れる。
「前のは外したよ」
「外して、買ったの」
課題は睡眠の質だ。深い眠りの時間が、去年の平均より二十二分短い。原因を分解すると、就寝時刻のばらつき、寝室の温度、夕方のカフェイン、運動量——ここまでが僕の書ける範囲で、その先が書けない。会社を売ったあと、僕はこの構文で自分を運用してきた。課題があって、要因があって、施策がある。施策の欄だけが、去年の秋から空欄のままだ。
スコアは六十四。六十四という数字が何を意味するのか、僕は説明できる。説明できるが、六十四で目が覚めた朝の身体が、六十八の朝とどう違うかは、分からない。
その夜、青森の宿を調べた。海抜九百メートル。二〇一三年の二月二十六日に、そこで五百六十六センチの積雪が観測されている。気象庁が雪を測っている全国の地点で、いちばん深い記録だという。
僕はその数字を三回読んだ。五百六十六センチ。僕の身長の三倍と少し。
十和田湖行
新青森から、十和田湖行のバスに乗る。一時間二十分。冬のあいだ、峠のほうは全面通行止めになっていて、十和田湖へは行けない。行けないのに、行き先の表示は十和田湖のままだった。
市街を抜けると、道の両側が壁になった。除雪した雪を、道の外へ積み上げたものだ。壁はバスの窓より高い。窓の上に空が細く残って、その細さのぶんだけ、車内が暗い。
僕は窓の外の高さを測ろうとした。基準になるものが無い。標識も、家も、壁の向こうにある。

乗客は七人だった。途中で二人降りて、五人になった。降りた場所に建物は見えなかった。
ヒバ千人風呂
宿は雪に埋まっていた。埋まっている、という言い方は正確ではない。一階が雪の下にあるように見えるが、実際は雪のほうが持ち上がっている。玄関までの道は、両側を切り立った雪で挟まれた溝だった。
浴室は百六十畳あると聞いた。総ヒバ造り。混浴で、女性だけの時間が朝と夜に一時間ずつある。
入ると、木の匂いが先に来た。酸性の湯で、硫黄の匂いもする。天井が高く、湯気が上がりきらずに梁のあたりで層になっていた。
浴室の中に、湯が四つある。名前がそれぞれ違う。熱の湯。冷の湯。湯滝。そして、四分六分の湯。
僕は四分六分の湯に入った。名前の意味が分からなかったからだ。
湯は熱くも冷たくもなく、入って三分で、僕は自分の呼吸が長くなっているのに気づいた。それから、腕が震えた。デバイスだ。湯に浸かっているだけなのに、腕のデバイスが震えて、運動を検出しましたと出た。
心拍が上がっている。上がる理由はある。湯温と外気の差、酸性の湯、標高。要因は分解できる。分解できるのに、僕は画面を見るのをやめて、湯の底に足を伸ばした。ヒバの板が、思っていたより柔らかかった。
上がるとき、宿の人が桶を運んでいた。四分六分の名前の由来を聞いた。
「諸説あるんですよ」
「どの説が本当ですか」
その人は桶を持ち替えて、少し笑った。
「どれも本当なんじゃないですかね。昔から、そう呼んでるんで」
四と六。何かが四で、何かが六なのだと思う。分母が書かれていない。分母の無い比が、名前のまま使われている。
湯治棟
僕の部屋は湯治棟の六畳で、トイレと洗面は共同だった。一泊二食で一万三千七百五十円。旅館棟に泊まると、二万円を超える。
同じ湯に入る。同じ雪の下にいる。寝る場所が違うだけで、七千円ぶん違う。七千円が何を買っているのかを、僕はしばらく考えた。
夕食は食事処で出た。量は控えめで、日替わりの鍋が付いた。健康に配慮した、と品書きに書いてある。鍋には大根と、鶏と、名前の分からない葉物が入っていた。
離れた卓に、一人で食べている男がいた。箸を置く間隔が一定だった。一口、置く、一口、置く。僕はそれを七回まで数えて、数えている自分に気づいて、汁椀に手を伸ばした。

部屋に戻って、ペットボトルのラベルを剥がした。癖だ。剥がしたラベルは、丸めて鞄に入れた。靴下は左から履く。これも昔からで、理由は知らない。
九時に消灯した。窓の外は白い。雪が明かりを返しているので、暗くならない。
雪の高さ
朝、スコアは五十八だった。滞在中いちばん低い。アプリは原因の欄に「高度」と表示していた。デバイスが原因を説明してくる。説明は正しい。
七時に湯へ行った。窓の外に、雪の面が浴室の高さで水平に広がっていた。人が一人、その上を歩いていく。膝から下が見えない。
朝食のあと、宿の人に、いま積雪が何センチあるのかを聞いた。
「去年より多いですね」
数字ではなかった。その人は続けて、去年は下屋の樋まで来ましたよ、と言った。僕は樋を探した。雪の面より下にあるはずだった。
帰りのバスが来た。乗ったのは四人だった。
窓の外は、また壁だった。行きに測れなかった高さだ。僕は手のひらを窓ガラスに当てた。ガラスが冷たい。手のひらの上端に壁のてっぺんを合わせて、目を細めて、自分の背丈がそこに何回入るかを見た。
三回と、少し。
バスが動きはじめて、壁が流れ、手のひらの形の曇りが、ガラスに残った。
