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木曜
「雨、降るってよ」
段ボールを畳みながら、店の人が言った。あたしは受け取り口に立っていた。明日は走らないと答えた。
「休むの」
「休みます」
「雨の日って、稼げるんじゃないの」
稼げる。単価に係数が乗る。一件で四百円くらい上がる。八件で三千二百円。
それでも木曜は走らないと決めていた。二週間前に決めた。
決めた日は走らない。走らない日は、何も残らない。アプリは稼働した日にしか行を作らない。休んだ日はゼロと出るのではなくて、出ない。週の集計を開くと、六日ぶんの数字が並んでいて、木曜のところが詰まっている。
二年やっている。同じ仕事の人と話したのは、信号待ちで二回だけだ。辞めるときも、誰にも言わなくていい。楽なはずだった。
先週は二百九十四キロ。
その夜、木曜に行ける場所を探した。新潟の山に一軒あった。料金の頁に、数字が三つ並んでいた。一泊で一万八千百五十円。二泊すると、一泊あたり一万七千五十円。三泊以上なら一万五千九百五十円。
一泊ぶんを距離に直すと、百八十キロある。先週走ったぶんの、六割くらいだ。
長くいるほど、一日が安くなる。
あたしの一日は、走るほど高くなる。
湯は三十六度と書いてあった。体温より低い。
十三時二十分
送迎は前日までに電話。受付は昼の十二時から五時まで。四時十分にかけた。浦佐の駅を、だいたい一時二十分から三十分のあいだに出ると言われた。一本しかない。
東京から浦佐まで、一時間半ほどだった。改札を出ると、ロータリーに車が一台停まっていて、宿の名前が窓に貼ってあった。乗ったのは三人。
十一月の田は、刈ったあとだった。切り株が土の上に残っていて、列が真っ直ぐだった。あの真っ直ぐさは機械が付けたものだと思う。
道の真ん中に、穴の並んだ細い管が埋まっていた。運転手の人が、冬になるとここから水が出て雪を溶かすのだと言った。あたしは穴の間隔を数えた。三十センチくらいで一つ。数え終わってから、数えても何にもならないと気づいた。

車は谷の奥へ入った。屋根が急な家が続いて、途中から家がなくなった。
したの湯
湯は三つある。したの湯、うえの湯、おくの湯。男女は日ごとに入れ替わると聞いた。その日、あたしが入れるのはしたの湯だった。
源泉の湧いている真上に浴槽があると聞いた。窓は磨りガラスで、外は見えない。
入った。熱くない。冷たくもない。肩まで沈めても、皮膚が湯の縁を憶えない。どこまでが自分の体か、しばらく分からなかった。
先に入っていた人がいた。首まで沈んで、目を閉じていた。動かない。あたしは十分で出ようとした。
「一時間くらい入るといいですよ」
目を閉じたまま、その人は言った。
「一時間、ですか」
「ここはそういう湯なので。二時間入る人もいます」
一時間。あたしの一時間は、だいたい八件から十件だ。雨なら六件で同じ金額になる。頭の中でその換算が動いて、動いたことに気づいて、止まらなかった。
肩の上を湯が動いた。誰も入ってこない。この宿は日帰りをやっていないから、湯にいるのは泊まっている人だけになる。通りすがりが、いない。
指の先を見た。まだふやけていない。
途中から、数えるものがなくなった。件数も、キロも、時計もない。左の膝の裏で、ずっと固まっていたものが、ほどける速さで踵のほうへ下りていって、下りきったところで足の裏が浴槽の底に着いた。
出たとき、脱衣所の時計は五十二分進んでいた。
湯から上がって、鍵を開けようとしたら、指紋が通らなかった。ふやけていた。三回やって、番号で開けた。
一汁四菜
夕食は膳で来た。汁が一つ、菜が四つ。米が白くて、粒が立っていた。おかわりをするか聞かれて、した。
食べ終わって、渡り廊下を通った。本館と湯治棟が廊下でつながっている。板が冷たい。
窓の桟に、手帳が開いて置いてあった。人の手が一つ、頁を押さえていた。中指の関節のところに、ペンのあとの窪みがある。字は見えない。あたしは通り過ぎた。
帳場で、もう一泊できるか聞いた。
聞いてから、なぜ聞いたのかを考えた。考えても出てこなかったので、そのまま待った。
宿の人が台帳を見て、部屋は空いていると言った。それから、二泊にすると一泊あたりの値段が下がりますと言った。紙を出して、指で三つの数字をなぞった。一万八千百五十。一万七千五十。一万五千九百五十。
「三泊だと、もっと下がります」
「二泊で」
部屋に戻って、菓子パンの袋を細く畳んだ。癖だ。畳んでも捨てるだけだ。
窓の外で、水の音がしていた。川なのか、雪を溶かす管なのか、十一月の頭だから、まだ管ではないはずだった。
刈った田
朝、湯は入れ替わっていた。うえの湯に入った。したの湯より少し狭くて、天井が近い。
五時半に入った。人はいなかった。湯の面から、湯気が出ていない。三十六度は湯気が出ない。
四十一分入った。上がって、廊下の窓から外を見たら、山の下のほうに霧が溜まっていた。

朝食は、漬物と納豆と、発酵させたものが多かった。名前の分からないものが二つあった。二つとも食べた。
帰りの車は昼前に出る。玄関で待っているあいだ、傘立てに柄の折れた傘が一本入っているのを見た。誰も持って帰らないのだと思う。
三泊にすれば、もう千百円下がった。下がると分かっていて、しなかった。
鞄から、昨日もらった紙を出した。裏は白かった。帳場に鉛筆があったので、借りて、三行書いた。
したの湯 五十二分。
うえの湯 四十一分。
おくの湯 まだ。
数字を書くのは慣れている。書いたものが金にならないのは、初めてだった。
紙を折って、鞄の内側に入れた。
車が坂を下りていく。刈った田がまた出てきて、切り株の列が窓の縁を横に流れた。運転手の人が、今年は雪が早いかもしれないと言った。あたしは、道の真ん中の管を目で追った。穴は、来たときと同じ間隔で並んでいた。
