宿と小説の読みもの、余白
RECORD № 062

長くいるほど、安い

走った街を一つも憶えていない働き方から、どう降りずに離れるか

自転車で街を走って生きている。先週の走行距離はアプリが憶えているが、通った道は一つも憶えていない。店の名前ではなく、番地と入口の形で街を憶える癖がついた。休む日を自分で決められる働き方のはずが、決めているのは単価と天気だと、うすうす気づいている。

奈緒という語り手について →

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木曜

「雨、降るってよ」

段ボールを畳みながら、店の人が言った。あたしは受け取り口に立っていた。明日は走らないと答えた。

「休むの」

「休みます」

「雨の日って、稼げるんじゃないの」

稼げる。単価に係数が乗る。一件で四百円くらい上がる。八件で三千二百円。

それでも木曜は走らないと決めていた。二週間前に決めた。

決めた日は走らない。走らない日は、何も残らない。アプリは稼働した日にしか行を作らない。休んだ日はゼロと出るのではなくて、出ない。週の集計を開くと、六日ぶんの数字が並んでいて、木曜のところが詰まっている。

二年やっている。同じ仕事の人と話したのは、信号待ちで二回だけだ。辞めるときも、誰にも言わなくていい。楽なはずだった。

先週は二百九十四キロ。

その夜、木曜に行ける場所を探した。新潟の山に一軒あった。料金の頁に、数字が三つ並んでいた。一泊で一万八千百五十円。二泊すると、一泊あたり一万七千五十円。三泊以上なら一万五千九百五十円。

一泊ぶんを距離に直すと、百八十キロある。先週走ったぶんの、六割くらいだ。

長くいるほど、一日が安くなる。

あたしの一日は、走るほど高くなる。

湯は三十六度と書いてあった。体温より低い。

十三時二十分

送迎は前日までに電話。受付は昼の十二時から五時まで。四時十分にかけた。浦佐の駅を、だいたい一時二十分から三十分のあいだに出ると言われた。一本しかない。

東京から浦佐まで、一時間半ほどだった。改札を出ると、ロータリーに車が一台停まっていて、宿の名前が窓に貼ってあった。乗ったのは三人。

十一月の田は、刈ったあとだった。切り株が土の上に残っていて、列が真っ直ぐだった。あの真っ直ぐさは機械が付けたものだと思う。

道の真ん中に、穴の並んだ細い管が埋まっていた。運転手の人が、冬になるとここから水が出て雪を溶かすのだと言った。あたしは穴の間隔を数えた。三十センチくらいで一つ。数え終わってから、数えても何にもならないと気づいた。

画像はイメージです

車は谷の奥へ入った。屋根が急な家が続いて、途中から家がなくなった。

したの湯

湯は三つある。したの湯、うえの湯、おくの湯。男女は日ごとに入れ替わると聞いた。その日、あたしが入れるのはしたの湯だった。

源泉の湧いている真上に浴槽があると聞いた。窓は磨りガラスで、外は見えない。

入った。熱くない。冷たくもない。肩まで沈めても、皮膚が湯の縁を憶えない。どこまでが自分の体か、しばらく分からなかった。

先に入っていた人がいた。首まで沈んで、目を閉じていた。動かない。あたしは十分で出ようとした。

「一時間くらい入るといいですよ」

目を閉じたまま、その人は言った。

「一時間、ですか」

「ここはそういう湯なので。二時間入る人もいます」

一時間。あたしの一時間は、だいたい八件から十件だ。雨なら六件で同じ金額になる。頭の中でその換算が動いて、動いたことに気づいて、止まらなかった。

肩の上を湯が動いた。誰も入ってこない。この宿は日帰りをやっていないから、湯にいるのは泊まっている人だけになる。通りすがりが、いない。

指の先を見た。まだふやけていない。

途中から、数えるものがなくなった。件数も、キロも、時計もない。左の膝の裏で、ずっと固まっていたものが、ほどける速さで踵のほうへ下りていって、下りきったところで足の裏が浴槽の底に着いた。

出たとき、脱衣所の時計は五十二分進んでいた。

湯から上がって、鍵を開けようとしたら、指紋が通らなかった。ふやけていた。三回やって、番号で開けた。

一汁四菜

夕食は膳で来た。汁が一つ、菜が四つ。米が白くて、粒が立っていた。おかわりをするか聞かれて、した。

食べ終わって、渡り廊下を通った。本館と湯治棟が廊下でつながっている。板が冷たい。

窓の桟に、手帳が開いて置いてあった。人の手が一つ、頁を押さえていた。中指の関節のところに、ペンのあとの窪みがある。字は見えない。あたしは通り過ぎた。

帳場で、もう一泊できるか聞いた。

聞いてから、なぜ聞いたのかを考えた。考えても出てこなかったので、そのまま待った。

宿の人が台帳を見て、部屋は空いていると言った。それから、二泊にすると一泊あたりの値段が下がりますと言った。紙を出して、指で三つの数字をなぞった。一万八千百五十。一万七千五十。一万五千九百五十。

「三泊だと、もっと下がります」

「二泊で」

部屋に戻って、菓子パンの袋を細く畳んだ。癖だ。畳んでも捨てるだけだ。

窓の外で、水の音がしていた。川なのか、雪を溶かす管なのか、十一月の頭だから、まだ管ではないはずだった。

刈った田

朝、湯は入れ替わっていた。うえの湯に入った。したの湯より少し狭くて、天井が近い。

五時半に入った。人はいなかった。湯の面から、湯気が出ていない。三十六度は湯気が出ない。

四十一分入った。上がって、廊下の窓から外を見たら、山の下のほうに霧が溜まっていた。

画像はイメージです

朝食は、漬物と納豆と、発酵させたものが多かった。名前の分からないものが二つあった。二つとも食べた。

帰りの車は昼前に出る。玄関で待っているあいだ、傘立てに柄の折れた傘が一本入っているのを見た。誰も持って帰らないのだと思う。

三泊にすれば、もう千百円下がった。下がると分かっていて、しなかった。

鞄から、昨日もらった紙を出した。裏は白かった。帳場に鉛筆があったので、借りて、三行書いた。

したの湯 五十二分。

うえの湯 四十一分。

おくの湯 まだ。

数字を書くのは慣れている。書いたものが金にならないのは、初めてだった。

紙を折って、鞄の内側に入れた。

車が坂を下りていく。刈った田がまた出てきて、切り株の列が窓の縁を横に流れた。運転手の人が、今年は雪が早いかもしれないと言った。あたしは、道の真ん中の管を目で追った。穴は、来たときと同じ間隔で並んでいた。

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Field Notes

栃尾又温泉 自在館

Overview

新潟県
Region
新潟県魚沼市栃尾又温泉(栃尾又温泉)
Access
上越新幹線・浦佐駅から宿の送迎で約30分(前日までの完全予約制、浦佐駅発はだいたい13:20〜13:30頃)。タクシーなら浦佐駅から約30分。公共交通は浦佐駅からJR上越線で小出駅へ8分、小出駅から南越後観光バス(小出〜栃尾又温泉線)。車は関越自動車道・魚沼IC(旧 小出IC)からR352経由で約20分
Price
予約サイトで確かめた一万円台後半〜(1名1室・夕朝食付) 公開の情報から中価格帯(【1泊2日の現代湯治】一汁四菜 1名1室 税込一万円台後半〜、2名1室は1名あたり一万円台後半。2泊3日は1名1室一万円台後半、3泊以上は一万円台半ば。2026年11月〜2027年4月の設定)

Facility

Room
客室26室のうちトイレ付19室・トイレなし8室(日本秘湯を守る会の基本情報。内訳の合計は27室で本文の26室と合わない)。露天風呂付き・バス付きの客室はない。1名利用の割増が無いのは、この8室のトイレなし客室のほう
Meal
夕朝食付の湯治食。夕食は一汁四菜、朝食は発酵食品を多くした和食。プランに『プチ坐禅』『プチファスティング(夕食は自家製スムージー)』がある

宿タイプ

  • 温泉旅館
  • 湯治宿
  • 老舗宿

向いている人間

  • 1泊2食を1名1室2万円未満に収めたい一人客
  • 体温に近い約36度の湯に1〜2時間入る、長湯の入り方を試したい人
  • 連泊したい人(2泊で1泊あたり17,050円、3泊以上で15,950円まで下がる)
  • 日帰り客と湯を共にしたくない人(日帰り入浴を受けていない)

向いていない人間

  • 熱い湯に短く入りたい人(浴場の泉温は約36度)
  • 到着の時刻を自由に決めたい人(浦佐駅からの送迎は1日1本・前日までの予約制)
  • 客室にトイレが要る人(トイレなしの客室がある。1名割増が無いのはその客室)
  • 日帰りで湯だけ使いたい人(日帰り入浴は不可)

予約前の注意事項

内湯の源泉は約36度で、体温より少し低い。温まる湯ではなく、一〜二時間浸かる前提の湯である。26室のうち8室はトイレなしで、1名利用の割増が無いのはその8室。浦佐駅からの送迎は前日までの完全予約制で、駅発はだいたい13:20〜13:30頃の1本。乗れない場合はタクシー約30分になる。浴場は男女入れ替え制(1日ごと)、利用時間は5:00〜23:00。日帰り入浴は受けていない。客室数は掲載元で食い違い、湯の扱いも公式は「源泉をそのままかけ流し」、日本秘湯を守る会の設備欄は「源泉かけ流し、給湯口源泉・浴槽循環濾過」と表記が割れている。料金は季節と連泊数で変わる。

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