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三百十二キロ
日曜の夜にアプリが週の集計を出す。先週は三百十二キロ。件数と、稼働時間と、距離。三つとも数字で出る。街の名前は出ない。
出なくていい。あたしも憶えていない。憶えているのは、番地と、入口の形だ。オートロックの内側にもう一枚ドアがある建物。三階までしか階段のない建物。裏に自転車を寄せられる建物。そういう憶え方をしている。店の名前は、たぶん一つも言えない。
火曜の朝、自転車が無かった。鍵はかけた。かけた場所も憶えている。歩道の柵、二本目。無かった。
交番で紙を書いて、店で在庫を聞いて、入るのは金曜だと言われた。四日。走れない日が四日できた。四日ぶんの数字が、まるごと空く。
左の親指の付け根に、ブレーキの形の硬いところがある。押すと、まだ痛い。走っていないのに痛いのが、少し腹立たしかった。
探して、歩いた。毎日曲がっている角を、歩く速さで曲がった。角に定食屋があった。ガラスの引き戸に手書きの品書きが貼ってあって、日替わりが七百八十円と書いてあった。何年もそこを曲がっている。一度も見ていない。
その夜、山形の宿を見た。一泊二食で一万四百五十円。あたしの走る距離でいうと、百キロぶんくらい。バスが一日に七本しかないと書いてあった。
つばさ
つばさは乗り換えなしで新庄まで行く。地図で測ったら、一週間で走る距離より長かった。座って着く。それがうまく飲み込めなくて、福島を過ぎるまで窓の外を見ていた。
新庄の駅前に、村営バスが停まっていた。十三時四十五分。次は十五時四十五分。乗ったのは五人だった。

バスは川に沿って上がっていった。ずっと登りだ。勾配が変わるたびにエンジンの音が一段低くなる。左が川で、右が斜面。対向車とすれ違える場所は、数えたら三つしかなかった。
五十五分。降りたら、谷の底だった。
一本道
温泉街は一本道で、川のほうへ下がっていた。坂と、段。降りていく。
宿の前で、あたしは建物の横を覗いていた。自転車を停める場所を探していた。持っていないのに、目が勝手に探した。
帳場で名前を言ったら、宿の人が「奈緒さん」と言った。名字ではなく、下の名前だった。予約の画面にそう入っていたのだろうと思う。それだけのことだった。
浴衣の丈が長くて、裾を三回折った。
湯には露天がない。内湯と、ひのきの貸切風呂。貸切のほうに札を掛けて入った。窓の外は木で、その向こうが川だった。湯は熱くも冷たくもなくて、肩まで入ると、親指の付け根が湯の中でゆっくり開いた。
上がって、廊下に足湯の案内が貼ってあるのを読んだ。共同浴場は四百円、夕方五時まで。時計を見たら、五時を過ぎていた。
囲炉裏
夕食は膳だった。山菜と、きのこと、川魚。山形牛が少し。膳の中で、名前の分からないものが三つあった。三つとも食べた。

囲炉裏の端に、一人で来ている男が座っていた。膳は前にあるのに、箸を持たずに手帳を開いていた。火を挟んで向かいだったから、顔がよく見えた。あたしは自分の膳に戻った。
外に出た。八時前で、通りの店は閉まっていた。自販機の灯りと、旅館の玄関の灯りだけ。人が歩いていない。川の音が、道の下からずっと鳴っている。
案内に、ドライヤーは無いと書いてあった。読んで、忘れていた。戻って、髪を乾かそうとしたら、ドライヤーが無かった。タオルで挟んで、窓を開けた。八月なのに涼しくて、腕にすぐ鳥肌が立った。
アプリを開いた。稼働できる地域の外です、と出た。当たり前だ。開いてから、開いたことに気づいた。閉じた。明日の集計には何も入らない。川の音は、朝まで同じ強さで鳴っていた。
朝市
五時半に、通りにビニールシートが敷かれる。四月の下旬から十二月の頭まで、毎朝立つのだと聞いた。
まだ薄暗い。茄子、みょうが、枝豆、きのこ。並べているのは近所の人で、買っているのも半分は近所の人だった。値段は紙に書いてある。書いていないものもある。
きのこを見ていたら、売っている人が「どこから来たの」と言った。
「東京です」
言ってから、区の名前も足した。自分の住んでいる街の名前を、声に出したのは久しぶりだった。その人は「遠いねえ」と言って、それから、あたしの顔を見た。三秒くらい。買わなかったのに、帰りぎわにもう一度こっちを見て、うなずいた。
帰りのバスは八時三十五分。待合所の前で、地図アプリを開いた。
家の近くの、あの角を出した。定食屋にはピンが立てられる。名前を入れる欄があったから、「歩く」と入れた。店の名前は、結局まだ知らない。
バスが来た。ドアが開く前に、窓の内側から運転手がこっちを見て、指を一本立てた。あと一分、という意味だと思った。
