宿と小説の読みもの、余白
RECORD № 055

停める場所を探した

走った街を一つも憶えていない働き方から、どう降りずに離れるか

自転車で街を走って生きている。先週の走行距離はアプリが憶えているが、通った道は一つも憶えていない。店の名前ではなく、番地と入口の形で街を憶える癖がついた。休む日を自分で決められる働き方のはずが、決めているのは単価と天気だと、うすうす気づいている。

奈緒という語り手について →

本記事はアフィリエイト広告を利用しています。

三百十二キロ

日曜の夜にアプリが週の集計を出す。先週は三百十二キロ。件数と、稼働時間と、距離。三つとも数字で出る。街の名前は出ない。

出なくていい。あたしも憶えていない。憶えているのは、番地と、入口の形だ。オートロックの内側にもう一枚ドアがある建物。三階までしか階段のない建物。裏に自転車を寄せられる建物。そういう憶え方をしている。店の名前は、たぶん一つも言えない。

火曜の朝、自転車が無かった。鍵はかけた。かけた場所も憶えている。歩道の柵、二本目。無かった。

交番で紙を書いて、店で在庫を聞いて、入るのは金曜だと言われた。四日。走れない日が四日できた。四日ぶんの数字が、まるごと空く。

左の親指の付け根に、ブレーキの形の硬いところがある。押すと、まだ痛い。走っていないのに痛いのが、少し腹立たしかった。

探して、歩いた。毎日曲がっている角を、歩く速さで曲がった。角に定食屋があった。ガラスの引き戸に手書きの品書きが貼ってあって、日替わりが七百八十円と書いてあった。何年もそこを曲がっている。一度も見ていない。

その夜、山形の宿を見た。一泊二食で一万四百五十円。あたしの走る距離でいうと、百キロぶんくらい。バスが一日に七本しかないと書いてあった。

つばさ

つばさは乗り換えなしで新庄まで行く。地図で測ったら、一週間で走る距離より長かった。座って着く。それがうまく飲み込めなくて、福島を過ぎるまで窓の外を見ていた。

新庄の駅前に、村営バスが停まっていた。十三時四十五分。次は十五時四十五分。乗ったのは五人だった。

画像はイメージです

バスは川に沿って上がっていった。ずっと登りだ。勾配が変わるたびにエンジンの音が一段低くなる。左が川で、右が斜面。対向車とすれ違える場所は、数えたら三つしかなかった。

五十五分。降りたら、谷の底だった。

一本道

温泉街は一本道で、川のほうへ下がっていた。坂と、段。降りていく。

宿の前で、あたしは建物の横を覗いていた。自転車を停める場所を探していた。持っていないのに、目が勝手に探した。

帳場で名前を言ったら、宿の人が「奈緒さん」と言った。名字ではなく、下の名前だった。予約の画面にそう入っていたのだろうと思う。それだけのことだった。

浴衣の丈が長くて、裾を三回折った。

湯には露天がない。内湯と、ひのきの貸切風呂。貸切のほうに札を掛けて入った。窓の外は木で、その向こうが川だった。湯は熱くも冷たくもなくて、肩まで入ると、親指の付け根が湯の中でゆっくり開いた。

上がって、廊下に足湯の案内が貼ってあるのを読んだ。共同浴場は四百円、夕方五時まで。時計を見たら、五時を過ぎていた。

囲炉裏

夕食は膳だった。山菜と、きのこと、川魚。山形牛が少し。膳の中で、名前の分からないものが三つあった。三つとも食べた。

画像はイメージです

囲炉裏の端に、一人で来ている男が座っていた。膳は前にあるのに、箸を持たずに手帳を開いていた。火を挟んで向かいだったから、顔がよく見えた。あたしは自分の膳に戻った。

外に出た。八時前で、通りの店は閉まっていた。自販機の灯りと、旅館の玄関の灯りだけ。人が歩いていない。川の音が、道の下からずっと鳴っている。

案内に、ドライヤーは無いと書いてあった。読んで、忘れていた。戻って、髪を乾かそうとしたら、ドライヤーが無かった。タオルで挟んで、窓を開けた。八月なのに涼しくて、腕にすぐ鳥肌が立った。

アプリを開いた。稼働できる地域の外です、と出た。当たり前だ。開いてから、開いたことに気づいた。閉じた。明日の集計には何も入らない。川の音は、朝まで同じ強さで鳴っていた。

朝市

五時半に、通りにビニールシートが敷かれる。四月の下旬から十二月の頭まで、毎朝立つのだと聞いた。

まだ薄暗い。茄子、みょうが、枝豆、きのこ。並べているのは近所の人で、買っているのも半分は近所の人だった。値段は紙に書いてある。書いていないものもある。

きのこを見ていたら、売っている人が「どこから来たの」と言った。

「東京です」

言ってから、区の名前も足した。自分の住んでいる街の名前を、声に出したのは久しぶりだった。その人は「遠いねえ」と言って、それから、あたしの顔を見た。三秒くらい。買わなかったのに、帰りぎわにもう一度こっちを見て、うなずいた。

帰りのバスは八時三十五分。待合所の前で、地図アプリを開いた。

家の近くの、あの角を出した。定食屋にはピンが立てられる。名前を入れる欄があったから、「歩く」と入れた。店の名前は、結局まだ知らない。

バスが来た。ドアが開く前に、窓の内側から運転手がこっちを見て、指を一本立てた。あと一分、という意味だと思った。

この続きに

読み続ける

行き先は、このサイトの中です。

この宿を

予約はこのサイトの外へ、後で送る一通は自分のメールへ届きます。

この記録の宿を予約する 大友屋旅館 予約サイト(宿の公式サイト)が新しいタブで開く (外部サイトが新しいタブで開きます)

この頁の場所を、自分のメールへ一通送る

便り

次の話が公開されたとき、一通だけ届きます。

Field Notes

大友屋旅館

Overview

山形県
Region
山形県最上郡大蔵村(肘折温泉)
Access
JR新庄駅前から大蔵村営バス「肘折ゆけむりライン」で「肘折温泉待合所」まで約55分。平日7便・土日祝4便で、新庄駅前発は7:20/8:35/10:15/11:25/13:45/15:45/18:05
Price
予約サイトで確かめた一万円台前半〜(1名1室・夕朝食付) 公開の情報から中価格帯(夕朝食付2名1室で1名あたり税込一万円に届かない。1名1室利用は一万円台前半〜、【一人旅】特典付プランは一万円台半ば〜、素泊まりは一万円に届かない)

Facility

Room
和室8〜10畳(トイレなし/ウォシュレット付きの2種)と、ベッドを置いた和洋室。総客室数は掲載元で異なる(じゃらんnet 16室/肘折温泉公式ポータル 17室)
Meal
夕朝食付。季節の山菜・きのこ・地場野菜を中心に、川魚や山形牛を加えた田舎料理を膳で提供

宿タイプ

  • 温泉旅館
  • 湯治宿
  • 温泉街の宿

向いている人間

  • 1泊2食で1万円台前半に収めたい一人客
  • 共同浴場・朝市・足湯が徒歩圏にある湯治場を歩いて回りたい人
  • 総ひのきの貸切風呂を使いたい人

向いていない人間

  • 露天風呂を求める人(この宿に露天はない)
  • 設備の快適さを重視する人(ドライヤーはなく、冷暖房は有料、客室によってはトイレもない)
  • 到着と出発の時刻を自由に決めたい人(公共交通は村営バスのみ)

予約前の注意事項

冷暖房が有料。ドライヤー・髭剃り・パジャマの備えはない。大浴場の利用時間は掲載元で食い違う(じゃらんnet「6時〜22時」/肘折温泉公式ポータル「男女入れ替え制で24時間入浴可能」)ため予約時に確認を。名物の朝市は4月20日〜12月10日の開催で、冬季はない。共同浴場「上の湯」は8:00〜17:00・大人400円、木曜の午前は清掃のため休み。

次の話

新しい記録が公開されたときだけ、一通お知らせします。
それ以外のメールは届きません。

メールアドレス以外は受け取りません。配信はいつでも解除できます。 取り扱いはプライバシーポリシーのとおりです。