宿と小説の読みもの、余白
RECORD № 054

遠いほうから

成果の物差しを失った人間は、何を「大漁」と呼べばいいのか

数字で組織を率いて、定年より早く退いた。成果の物差しを返したあとの時間が、まだ身体に馴染まない。妻と話していると、報告の口調が出る。出てから気づく。

克彦という語り手について →

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付箋

町の図書館で、温泉の案内書を借りた。私が借りたのはずいぶん前に出た本で、巻末の貸出カードの欄はもう使われていない。頁の間に、水色の付箋が一枚残っていた。鉛筆で「バス14:20」とだけ書いてある。前に借りた誰かが挟んだまま返したのだろう。カウンターの人は気づかなかったか、気づいて、そのままにした。

付箋の挟まっていた頁は、青森の宿だった。山の中の一軒宿で、電気を引いていない。夜はランプだけで、携帯電話は通じない。そう書いてあった。

妻に、予定を立てずに行っておいでと言われたのが春先で、五か月が経つ。以来、そのとおりにしてきた。午前のうちに用事を片づける。銀行の記帳も、町内会の回覧も、午前に寄せる。午後は空く。空いた午後のために、午前の段取りは以前より細かくなった。以上。

散歩は四十分、続いている。雨の日は歩かない。雨が三日続いた週があって、その週は手帳の欄が三日ぶん白いままだった。白いまま残った三日を、私はまだ憶えている。

奥歯の被せ物が少し浮いていて、舌で押すとわずかに沈む。歯科の予約は来月で、それまでは舌で確認する以外にすることがない。

宿に電話をかけた。送迎バスは予約が要ると書いてあった。電話に出た人は、泊まる日と、何時の便で来るかを聞いた。十四時二十分の便で行きます、と私は答えた。付箋の数字を、そのまま読み上げていた。

十四時二十分

新幹線で新青森まで三時間あまり。在来線に乗り換えて弘前まで四十分弱。弘前で私鉄に乗り換える。車両は短く、乗客は数えられるほどだった。黒石まで三十五分。

画像はイメージです

黒石の駅前で、バスまで一時間近くあった。駅前の店で蕎麦を食べた。丼の縁が小さく欠けていて、口をつける側を回して使った。

十四時二十分の便に乗った。温川行きである。バスは町を出て、川に沿って上りはじめた。窓を開けている乗客がいて、蝉の声が入ってきた。つくつくぼうしだった。夏の終わりの鳴き方をしていた。

十四時五十五分、虹の湖公園に着いた。道の駅の駐車場に、宿のワゴンが停まっていた。運転手が私の名前を確かめて、名簿に線を引いた。定規を使わずに、上から下へ、線が真っ直ぐだった。

十五時ちょうどに出た。二十分ほど林道を上る。途中で、携帯電話の表示から電波の棒が消えた。電波の消えた時刻を確かめるために、同じ画面の時計を見た。時計は動いていた。当たり前である。

圏外

宿は沢のそばにあった。本館があり、離れが三棟、少し離れて建っている。橋が渡してある。

帳場で、湯の時間を書いた紙をもらった。湯は四つある。健六の湯、本館の内湯、滝見の湯、露天。露天は混浴で、女性専用の時間が昼と夕方に一時間ずつ設けてある。三つの湯は五時半から二十一時半まで。健六の湯だけ、時刻が書かれていない。二十四時間、と欄外に小さく添えてあった。

終わりの時刻のない湯に、どう入ればいいのか分からなかった。とりあえず入った。青森ヒバで組んである。木の匂いが、湯気と一緒に上がってきた。

上がってから、脱衣所に剃刀もドライヤーも置いていないことに気づいた。無精髭のまま、夕方まで過ごすことになった。

部屋にコンセントはない。テレビもない。壁にドライヤーを掛ける金具もない。携帯電話は圏外のままで、充電もできない。妻に到着の報告を送ろうとして、送れないことに気づいた。文面は頭の中でできていた。十五時二十分着、天候晴、以上。送れない報告は報告ではなく、頭の中の三行である。

窓を開けた。沢の音が入ってきた。音は途切れない。しばらく、それを聞いていた。

ランプ小屋

夕方、宿の人がランプを配って回りはじめた。廊下の柱に一つ、部屋に一つ、階段の踊り場に一つ。手に提げた木箱に、火の入ったランプが並んでいる。

館内には二百近くあるという。毎日、全部の芯を切り、ホヤを拭く。ランプ小屋という部屋があって、そこで手入れをするのだと、その人は言った。

「順番はあるんですか」

「ありますよ。遠いほうから」

それだけ言って、その人は先へ行った。私は廊下の端に立って、火の入っていく順を見ていた。遠い離れから、橋を渡って、本館へ。順番は最後まで崩れなかった。ただ、途中で一度、その人は来た道を戻った。踊り場のランプが消えていた。芯を出し直し、もう一度火を入れて、それから先へ進んだ。戻った分だけ遅れたはずだが、遅れているようには見えなかった。戻ることも、順番のうちらしかった。

画像はイメージです

夕食は食事処だった。山菜と、きのこと、川魚が焼いてある。膳の上のものを、端から順に食べた。順に食べる必要はないのだが、そうなった。

隅に、一人で来ている男がいた。ランプを膳の脇へ寄せて、手帳を開いている。鉛筆は持っていたが、動かしていなかった。字が読める明るさではなかったと思う。

日が落ちると、館内はランプだけになった。廊下は先が見えない。手に持ったランプの届く範囲だけが床で、その先は音だった。部屋に戻って手帳を開いたが、ランプの下では罫線が見えない。閉じた。蛾が一匹、ホヤの外側にとまっていた。

朝、五時半に健六の湯へ行った。時刻の書かれていない湯だが、五時半に行った。沢に霧が下りていて、湯気と区別がつかなかった。

朝食のあと、八時半の送迎バスに乗った。虹の湖まで二十分。九時十分の路線バスで黒石駅へ戻る。乗り継ぎまで二十分ある。道の駅の待合の椅子で、電波が戻った。妻からの着信はない。昨日の三行を、いま送っても意味がない。これから帰る、とだけ打って送った。

路線バスの中で、手帳を開いた。来週の欄に「散歩・四十分」と書いた。書いてから行を変えて、その下に「雨なら、家の中を四十分」と書いた。二行目のほうが、字が小さくなった。

図書館の本は帰ったら返す。付箋は挟んだままにしておくつもりだったが、鉛筆を出して、裏に「九時十分」と書き足した。書き足してから、元の頁に戻した。次に借りる人が同じ宿へ行くとは限らない。

黒石の駅で、私鉄を待った。ホームに日が当たっていて、まだ十時前だった。

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Field Notes

ランプの宿 青荷温泉

Overview

青森県
Region
青森県黒石市(青荷温泉)
Access
弘南鉄道黒石駅前から弘南バス温川行きで「虹の湖公園」(道の駅虹の湖)まで約35分、そこから宿の無料送迎バス(事前予約制)で約20分。夏期(4月1日〜11月30日)に送迎バスと接続する黒石駅前発の路線バスは14:20発・16:15発の1日2本
Price
予約サイトで確かめた一万円台後半〜(1名1室・夕朝食付) 2名1室での実測一万円台半ば〜(2名1室の1名分・夕朝食付) 公開の情報から中価格帯(夕朝食付2名1室で1名あたり税込一万円台半ば〜。1名1室利用は税込一万円台後半〜)

Facility

Room
和室のみ。本館と3棟のはなれ(ふるさと館・幻渓楼・十方堂)。客室にトイレ・テレビ・コンセントはない。総客室数は掲載元で異なる(一休.com 31室/じゃらんnet 35室)
Meal
夕朝食付。山菜・きのこ・川魚など山の食材を使った田舎料理を食事処で提供

宿タイプ

  • 温泉旅館
  • 一軒宿
  • 秘湯
  • ランプの宿

向いている人間

  • 携帯電話の電波・テレビ・室内の照明がない環境に一晩だけ身を置いてみたい人
  • 乗り換えを重ねて山の一軒宿へ向かうこと自体に価値を見出す人
  • 1泊2食で2万円を切る価格帯で源泉かけ流しの湯を数か所めぐりたい一人客

向いていない人間

  • 客室の設備やアメニティの充実を求める人(ドライヤー・パジャマ・冷蔵庫・温水洗浄トイレはなく、客室にトイレもない)
  • 混浴の露天風呂があることに抵抗がある人(女性専用時間は11:00〜12:00と17:00〜18:00)
  • 到着と出発の時刻を自分で決めたい人(送迎バスは事前予約制)

予約前の注意事項

携帯電話は圏外で、客室にコンセントがないため充電もできない。送迎バスは事前予約制で、予約がないと運行しない場合がある。送迎の時刻は掲載元によって食い違うため予約時に宿へ直接確認すること。露天風呂は工事等で利用を停止していた時期があるので、利用可否もあわせて確認するのが確実。健六の湯は24時間、ほかの3つの湯は5:30〜21:30。1名で出るプランは、じゃらんも一休も1件だけである(2名でも1件で、人数では変わらない。2026-08-27実測)。冬期(12月1日〜3月31日)は路線バスが運行せず、国道102号入口から宿までが一般車両通行止めになる。

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