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付箋
町の図書館で、温泉の案内書を借りた。私が借りたのはずいぶん前に出た本で、巻末の貸出カードの欄はもう使われていない。頁の間に、水色の付箋が一枚残っていた。鉛筆で「バス14:20」とだけ書いてある。前に借りた誰かが挟んだまま返したのだろう。カウンターの人は気づかなかったか、気づいて、そのままにした。
付箋の挟まっていた頁は、青森の宿だった。山の中の一軒宿で、電気を引いていない。夜はランプだけで、携帯電話は通じない。そう書いてあった。
妻に、予定を立てずに行っておいでと言われたのが春先で、五か月が経つ。以来、そのとおりにしてきた。午前のうちに用事を片づける。銀行の記帳も、町内会の回覧も、午前に寄せる。午後は空く。空いた午後のために、午前の段取りは以前より細かくなった。以上。
散歩は四十分、続いている。雨の日は歩かない。雨が三日続いた週があって、その週は手帳の欄が三日ぶん白いままだった。白いまま残った三日を、私はまだ憶えている。
奥歯の被せ物が少し浮いていて、舌で押すとわずかに沈む。歯科の予約は来月で、それまでは舌で確認する以外にすることがない。
宿に電話をかけた。送迎バスは予約が要ると書いてあった。電話に出た人は、泊まる日と、何時の便で来るかを聞いた。十四時二十分の便で行きます、と私は答えた。付箋の数字を、そのまま読み上げていた。
十四時二十分
新幹線で新青森まで三時間あまり。在来線に乗り換えて弘前まで四十分弱。弘前で私鉄に乗り換える。車両は短く、乗客は数えられるほどだった。黒石まで三十五分。

黒石の駅前で、バスまで一時間近くあった。駅前の店で蕎麦を食べた。丼の縁が小さく欠けていて、口をつける側を回して使った。
十四時二十分の便に乗った。温川行きである。バスは町を出て、川に沿って上りはじめた。窓を開けている乗客がいて、蝉の声が入ってきた。つくつくぼうしだった。夏の終わりの鳴き方をしていた。
十四時五十五分、虹の湖公園に着いた。道の駅の駐車場に、宿のワゴンが停まっていた。運転手が私の名前を確かめて、名簿に線を引いた。定規を使わずに、上から下へ、線が真っ直ぐだった。
十五時ちょうどに出た。二十分ほど林道を上る。途中で、携帯電話の表示から電波の棒が消えた。電波の消えた時刻を確かめるために、同じ画面の時計を見た。時計は動いていた。当たり前である。
圏外
宿は沢のそばにあった。本館があり、離れが三棟、少し離れて建っている。橋が渡してある。
帳場で、湯の時間を書いた紙をもらった。湯は四つある。健六の湯、本館の内湯、滝見の湯、露天。露天は混浴で、女性専用の時間が昼と夕方に一時間ずつ設けてある。三つの湯は五時半から二十一時半まで。健六の湯だけ、時刻が書かれていない。二十四時間、と欄外に小さく添えてあった。
終わりの時刻のない湯に、どう入ればいいのか分からなかった。とりあえず入った。青森ヒバで組んである。木の匂いが、湯気と一緒に上がってきた。
上がってから、脱衣所に剃刀もドライヤーも置いていないことに気づいた。無精髭のまま、夕方まで過ごすことになった。
部屋にコンセントはない。テレビもない。壁にドライヤーを掛ける金具もない。携帯電話は圏外のままで、充電もできない。妻に到着の報告を送ろうとして、送れないことに気づいた。文面は頭の中でできていた。十五時二十分着、天候晴、以上。送れない報告は報告ではなく、頭の中の三行である。
窓を開けた。沢の音が入ってきた。音は途切れない。しばらく、それを聞いていた。
ランプ小屋
夕方、宿の人がランプを配って回りはじめた。廊下の柱に一つ、部屋に一つ、階段の踊り場に一つ。手に提げた木箱に、火の入ったランプが並んでいる。
館内には二百近くあるという。毎日、全部の芯を切り、ホヤを拭く。ランプ小屋という部屋があって、そこで手入れをするのだと、その人は言った。
「順番はあるんですか」
「ありますよ。遠いほうから」
それだけ言って、その人は先へ行った。私は廊下の端に立って、火の入っていく順を見ていた。遠い離れから、橋を渡って、本館へ。順番は最後まで崩れなかった。ただ、途中で一度、その人は来た道を戻った。踊り場のランプが消えていた。芯を出し直し、もう一度火を入れて、それから先へ進んだ。戻った分だけ遅れたはずだが、遅れているようには見えなかった。戻ることも、順番のうちらしかった。

夕食は食事処だった。山菜と、きのこと、川魚が焼いてある。膳の上のものを、端から順に食べた。順に食べる必要はないのだが、そうなった。
隅に、一人で来ている男がいた。ランプを膳の脇へ寄せて、手帳を開いている。鉛筆は持っていたが、動かしていなかった。字が読める明るさではなかったと思う。
日が落ちると、館内はランプだけになった。廊下は先が見えない。手に持ったランプの届く範囲だけが床で、その先は音だった。部屋に戻って手帳を開いたが、ランプの下では罫線が見えない。閉じた。蛾が一匹、ホヤの外側にとまっていた。
霧
朝、五時半に健六の湯へ行った。時刻の書かれていない湯だが、五時半に行った。沢に霧が下りていて、湯気と区別がつかなかった。
朝食のあと、八時半の送迎バスに乗った。虹の湖まで二十分。九時十分の路線バスで黒石駅へ戻る。乗り継ぎまで二十分ある。道の駅の待合の椅子で、電波が戻った。妻からの着信はない。昨日の三行を、いま送っても意味がない。これから帰る、とだけ打って送った。
路線バスの中で、手帳を開いた。来週の欄に「散歩・四十分」と書いた。書いてから行を変えて、その下に「雨なら、家の中を四十分」と書いた。二行目のほうが、字が小さくなった。
図書館の本は帰ったら返す。付箋は挟んだままにしておくつもりだったが、鉛筆を出して、裏に「九時十分」と書き足した。書き足してから、元の頁に戻した。次に借りる人が同じ宿へ行くとは限らない。
黒石の駅で、私鉄を待った。ホームに日が当たっていて、まだ十時前だった。
