宿と小説の読みもの、余白
RECORD № 113

切符は二枚

成果の物差しを失った人間は、何を「大漁」と呼べばいいのか

数字で組織を率いて、定年より早く退いた。成果の物差しを返したあとの時間が、まだ身体に馴染まない。妻と話していると、報告の口調が出る。出てから気づく。

克彦という語り手について →

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起案

「で、これは何の会議」と妻が言った。

食卓に、私は紙を三枚並べていた。一枚目が行程、二枚目が宿の間取り、三枚目が持ち物の案である。会議ではない、旅行だ、と私は言った。言ってから、三枚目を裏返した。持ち物の案まで刷った時点で、これは誘いではなく起案だった。四十二年、私はこうやって人を動かしてきた。動かす相手がいなくなって二年、こんどは妻を動かそうとして、同じ紙を刷っている。

始まりは十日前の晩である。テレビに箱根の登山電車が映って、妻が、これ、乗ったことない、と言った。独り言に近い声だった。私はそれを、翌朝の手帳の隅に書いた。書いたことは言わなかった。乗ったことがないのは私も同じで、あの山にはロマンスカーで行くものだと決めていた。決めていた根拠を思い出そうとしたが、出てこなかった。根拠のない決まりごとで、私の四十二年はできていた——と、そこまで考えて、これも結論のない報告だと気づき、やめた。

宿は、二人からしか泊まれない宿にした。客室がいずれも二名からで、一人分の予約はどの窓口にも出てこない。一人旅を五度重ねた身には、はじめ不便な決まりに見えた。三枚の紙を作りながら、見え方が変わった。この宿は、二人で来ることが前提の造りなのだ。前提というものの置き場所が、私と妻のあいだには長いこと無かった。

三度、後ろへ下がる

小田原までは新幹線で三十五分だった。箱根湯本で登山電車に乗り換えると、車内の勾配標に八十パーミルとあった。千メートルで八十メートル登る、と読む。読み上げると、妻は、急なのね、とだけ言った。

電車は途中で三度、進行方向を変えた。スイッチバックというのだそうで、山が急すぎて、まっすぐには登れない。停まるたび、運転士と車掌が車内を歩いて入れ替わる。先頭が最後尾になり、最後尾が先頭になる。私はその歩く二人の段取りを目で追った。歩幅が決まっていて、すれ違う位置まで決まっているように見えた。前へ進むために三度も後ろへ下がる乗り物に、私は乗ったことがなかった。ダイヤの上では、下がる時間も所要時間のうちである。

切符は二枚で、胸の内ポケットに入れると、厚みが去年までの倍あった。倍の厚みを、私は途中で二度、上から確かめた。妻は窓の外の、色の終わりかけた山を見ていた。何も話さない区間が長くて、長いことが、車内では困らなかった。電車が代わりに揺れて、音を立てていた。

数列前の席で、男がひとり、窓も見ずに黒い手帳に何か書きつけていた。仕事の匂いのする書き方だった。強羅で降りるとき、男はまだ書いていた。

画像はイメージです

部屋に湯がある

強羅からケーブルカーでさらに登り、早雲山の駅を出ると、宿までは専用のエレベーターが直結していた。坂を一歩も歩かない。歩かずに着けることを、私は三枚目の紙に書いていなかった。書いていなかった良いことが宿にあるのは、悪くなかった。

部屋には露天風呂が付いていた。全二十室の全部に付いているという。妻は着いて三十分で一度入り、私は夕食のあとに入った。同じ湯に、別々の時刻に入る。家の風呂では順番を待つ側と待たせる側があるが、ここでは湯が待っている。誰も待たない造りというものを、金で買ったことになる。買ってよかったかどうかの判定は、いつもの癖で始めかけて、湯の中では続かなかった。

夕食は個室に用意された。会席の品書きを、妻は最初から最後まで読み、私は最初の三品で畳んだ。読み方が違うことを、四十年知っていて、向かいで見たのは久しぶりだった。給仕の人は品を置くたび、短くひとこと添えて下がった。下がる足音がしなかった。

「この宿、あなたが選んだにしては、風呂が良すぎる」と妻が言った。褒められているのか、調べられているのか、判定を保留した。保留したまま、次の品が来た。

判の要らない書類

朝、部屋の湯にもう一度入ってから、私は窓の障子を半分開けて、山を見ていた。妻はまだ寝ていた。寝ている人の呼吸と、湯の注ぎ足される音だけの時間が、三十分ほどあった。三十分を何に使ったのかと問われれば、報告できるものは何もない。報告の要らない三十分を、退職から二年目にして、私はまだ持て余す。持て余しながら、悪くないと思っていた。

十一時前に発った。エレベーターで駅へ降り、ケーブルカーと登山電車を逆の順でつないで山を下りる。下りの電車も、三度、前後を入れ替えた。行きに段取りを目で追った運転士の交代を、帰りの私は追わなかった。追わない乗り方も、できるらしかった。

小田原からの新幹線で、妻は先に眠った。私は手帳を開いて、閉じた。書くことがなかったのではない。書かなくても残りそうだったからだ。

家に帰った晩、私は妻の探し方で宿を一軒調べた。妻の探し方とは、風呂の写真から先に見る探し方である。私の探し方は、料金表と経路から先に見る。四十年、互いの探し方を交換したことがなかった。一軒に決めて、画面を開いたまま、食卓に置いた。起案書は付けなかった。判をもらう書類ではないからだ。妻が見るかどうかは、分からない。分からないまま、私は風呂に入った。

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Field Notes

強羅花扇

Overview

神奈川県
Region
神奈川県足柄下郡箱根町(強羅温泉)
Access
東京駅から東海道新幹線で小田原駅へ約35分、箱根登山鉄道で箱根湯本へ約15分、箱根登山電車で強羅へ約40分、箱根登山ケーブルカーで早雲山へ約10分。駅そばから宿専用エレベーターが直結。強羅駅周辺から無料送迎あり(15:00〜18:00・現地連絡)
Price
予約サイトで確かめた四万円台後半〜(2名1室の1名分・夕朝食付) 公開の情報から高価格帯(2名1泊2食 税込九万円台半ば〜)

Facility

Room
全室露天風呂付き客室(全20室)
Meal
月替りの会席料理(個室またはセミプライベート空間)

宿タイプ

  • 温泉旅館
  • 露天風呂付き客室
  • 小規模宿

向いている人間

  • 夫婦二人で、互いの時間を守ったまま泊まりたい人
  • 客室の露天風呂で滞在を完結させたい人
  • 乗換を重ねる道中自体を許容・希望する人

向いていない人間

  • 一人で泊まりたい人(客室はいずれも二名から)
  • 予算を抑えたい人(2名1泊2食 税込94,000円〜)
  • 18時までにチェックインできない人
  • 温泉街の賑わいを歩いて楽しみたい人

予約前の注意事項

一人での宿泊は受けていない。客室はいずれも二名からで、一休.com・じゃらんnet・Relux・公式予約のいずれでも一人分は出てこない。二人以上で行くための宿である。チェックインは15:00〜18:00に限られる。強羅駅からの送迎は現地連絡制で相乗りの場合あり。泉質は公式表記で重曹泉(炭酸水素塩泉を含む湯)。料金は変動する。

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