本記事はアフィリエイト広告(Expedia・Relux・一休.com・じゃらんnet)を利用しています。
起案
「で、これは何の会議」と妻が言った。
食卓に、私は紙を三枚並べていた。一枚目が行程、二枚目が宿の間取り、三枚目が持ち物の案である。会議ではない、旅行だ、と私は言った。言ってから、三枚目を裏返した。持ち物の案まで刷った時点で、これは誘いではなく起案だった。四十二年、私はこうやって人を動かしてきた。動かす相手がいなくなって二年、こんどは妻を動かそうとして、同じ紙を刷っている。
始まりは十日前の晩である。テレビに箱根の登山電車が映って、妻が、これ、乗ったことない、と言った。独り言に近い声だった。私はそれを、翌朝の手帳の隅に書いた。書いたことは言わなかった。乗ったことがないのは私も同じで、あの山にはロマンスカーで行くものだと決めていた。決めていた根拠を思い出そうとしたが、出てこなかった。根拠のない決まりごとで、私の四十二年はできていた——と、そこまで考えて、これも結論のない報告だと気づき、やめた。
宿は、二人からしか泊まれない宿にした。客室がいずれも二名からで、一人分の予約はどの窓口にも出てこない。一人旅を五度重ねた身には、はじめ不便な決まりに見えた。三枚の紙を作りながら、見え方が変わった。この宿は、二人で来ることが前提の造りなのだ。前提というものの置き場所が、私と妻のあいだには長いこと無かった。
三度、後ろへ下がる
小田原までは新幹線で三十五分だった。箱根湯本で登山電車に乗り換えると、車内の勾配標に八十パーミルとあった。千メートルで八十メートル登る、と読む。読み上げると、妻は、急なのね、とだけ言った。
電車は途中で三度、進行方向を変えた。スイッチバックというのだそうで、山が急すぎて、まっすぐには登れない。停まるたび、運転士と車掌が車内を歩いて入れ替わる。先頭が最後尾になり、最後尾が先頭になる。私はその歩く二人の段取りを目で追った。歩幅が決まっていて、すれ違う位置まで決まっているように見えた。前へ進むために三度も後ろへ下がる乗り物に、私は乗ったことがなかった。ダイヤの上では、下がる時間も所要時間のうちである。
切符は二枚で、胸の内ポケットに入れると、厚みが去年までの倍あった。倍の厚みを、私は途中で二度、上から確かめた。妻は窓の外の、色の終わりかけた山を見ていた。何も話さない区間が長くて、長いことが、車内では困らなかった。電車が代わりに揺れて、音を立てていた。
数列前の席で、男がひとり、窓も見ずに黒い手帳に何か書きつけていた。仕事の匂いのする書き方だった。強羅で降りるとき、男はまだ書いていた。

部屋に湯がある
強羅からケーブルカーでさらに登り、早雲山の駅を出ると、宿までは専用のエレベーターが直結していた。坂を一歩も歩かない。歩かずに着けることを、私は三枚目の紙に書いていなかった。書いていなかった良いことが宿にあるのは、悪くなかった。
部屋には露天風呂が付いていた。全二十室の全部に付いているという。妻は着いて三十分で一度入り、私は夕食のあとに入った。同じ湯に、別々の時刻に入る。家の風呂では順番を待つ側と待たせる側があるが、ここでは湯が待っている。誰も待たない造りというものを、金で買ったことになる。買ってよかったかどうかの判定は、いつもの癖で始めかけて、湯の中では続かなかった。
夕食は個室に用意された。会席の品書きを、妻は最初から最後まで読み、私は最初の三品で畳んだ。読み方が違うことを、四十年知っていて、向かいで見たのは久しぶりだった。給仕の人は品を置くたび、短くひとこと添えて下がった。下がる足音がしなかった。
「この宿、あなたが選んだにしては、風呂が良すぎる」と妻が言った。褒められているのか、調べられているのか、判定を保留した。保留したまま、次の品が来た。
判の要らない書類
朝、部屋の湯にもう一度入ってから、私は窓の障子を半分開けて、山を見ていた。妻はまだ寝ていた。寝ている人の呼吸と、湯の注ぎ足される音だけの時間が、三十分ほどあった。三十分を何に使ったのかと問われれば、報告できるものは何もない。報告の要らない三十分を、退職から二年目にして、私はまだ持て余す。持て余しながら、悪くないと思っていた。
十一時前に発った。エレベーターで駅へ降り、ケーブルカーと登山電車を逆の順でつないで山を下りる。下りの電車も、三度、前後を入れ替えた。行きに段取りを目で追った運転士の交代を、帰りの私は追わなかった。追わない乗り方も、できるらしかった。
小田原からの新幹線で、妻は先に眠った。私は手帳を開いて、閉じた。書くことがなかったのではない。書かなくても残りそうだったからだ。
家に帰った晩、私は妻の探し方で宿を一軒調べた。妻の探し方とは、風呂の写真から先に見る探し方である。私の探し方は、料金表と経路から先に見る。四十年、互いの探し方を交換したことがなかった。一軒に決めて、画面を開いたまま、食卓に置いた。起案書は付けなかった。判をもらう書類ではないからだ。妻が見るかどうかは、分からない。分からないまま、私は風呂に入った。
