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置き配
「ドアの前でいいです」
インターホン越しに、そう言われる。ほとんどがそれだ。あたしは袋を床に置いて、写真を撮って、階段を下りる。
顔は見ない。そこに顔がない。ドアと、番号と、置ける場所がある。
二年やっている。呼び鈴を押す件数は、月に一件か二件まで減った。押しても、たいてい出ない。出ないことに腹は立たない。あたしも、自分の家のインターホンには出ない。
日曜の夜、アプリが週の集計を出した。二百七十一キロ。
休みを決めていなかった。決めていないと、決めなくていい理由が毎日出てくる。雨だから、乾いてるから、月末だから。
海を見に行くことにした。走っている街に、海はない。川はある。橋は数えられるくらい渡っている。海は、たぶん二年、見ていない。
千葉の宿を出した。一泊、一万四百五十円。東京から特急で一時間五十分。
駅から歩いて二十分と書いてあった。その下に、電話をすれば送迎に行きます、とあった。
歩けばいい、と思った。
わかしお
特急は東京の地下から出た。地下から出る特急に乗るのは初めてで、動き出してから五分、窓が真っ暗だった。
外に出ると、家の屋根が低くなった。蘇我を過ぎたあたりから、線路の左右に畑が増える。

一時間五十分。座っている。座っているだけで、進んでいる。ペダルの下の重さがないのが、まだうまく飲み込めない。
自転車で来るなら、六時間はかかると思う。百キロ少し。先週走ったぶんの、三分の一くらいだ。
海が出たのは、大原を過ぎてからだった。窓の下のほうに、灰色の面が広がって、白い線が横に走っている。波だと分かるまで、少しかかった。十一月の海は、思っていたより色が薄い。
安房小湊で降りた。ホームに人は四人。
二十分
駅の前に、タクシーが一台停まっていた。あたしはその横を通って、歩き出した。
道は海のほうへ下っていた。歩道は途中で無くなって、白い線の内側を歩いた。車が来るたび、体が半歩、右に寄る。
寄る癖は、自転車のときと同じだった。歩いていても、体は道の端を憶えている。
十二分で、寺の門が見えた。門の前に、猫がいた。首輪はしていない。あたしを見て、動かなかった。
十八分で、宿の看板が出た。二十分と書いてあったのが、十八分だった。二分早い。二分早く着いても、何も起きない。
帳場で名前を言った。宿の人が、鍵と、湯の時間の紙を出した。
夢湯
湯は上のほうにあった。窓が広くて、外が海だった。
肩まで入って、窓の外を見た。海の面が、湯の面より高いところにある。そう見えるだけだと分かっているが、しばらくそう見えた。
波は同じ間隔で来ない。三つ短くて、次が長い。長いのが来ると、白い線が一本、横に伸びる。あたしは数えようとして、途中で分からなくなった。
分からなくなったまま、湯にいた。

上がって、部屋で髪を乾かした。ドライヤーはあった。
窓を開けると、波の音が入ってきた。音は、川より低い。川は上から下へ鳴るが、海は、横から来て、横へ抜ける。
夕食のあと、外へ出た。門の前の猫は、いなかった。街灯が四つあって、二つは点いていなかった。
堤防の上に、人が一人立っていた。こちらに背を向けて、手のひらくらいの大きさのものを持っている。暗くて、それが何かは分からない。あたしは道の側から見ていて、近づかなかった。
お願いします
朝、湯にもう一度入った。海の色は、昨日より濃かった。
帳場に鍵を返した。
「駅までお送りしますよ」
宿の人が言った。あたしは、頼んでいない。
「昨日、歩いて来られましたよね」
見られていた。あたしは、見られない働き方を二年している。人の顔を見ない代わりに、こちらも見られていないのだと、たぶん思っていた。
頼む、というのを、たぶん二年やっていない。置いて、撮って、下りる。頼む相手がいない働き方を、自分で選んだ。
「お願いします」
言ってから、声が思ったより小さかったので、もう一度言った。
車は坂を上がった。歩いて下りた道を、逆に上がっていく。十八分の道は、車だと四分だった。
窓の外に、寺の門が過ぎた。猫はいなかった。運転している人が、この時期は朝がいちばん静かなんですよ、と言った。あたしは、そうですね、と答えた。
