宿と小説の読みもの、余白
RECORD № 114

歩いて来た人

走った街を一つも憶えていない働き方から、どう降りずに離れるか

自転車で街を走って生きている。先週の走行距離はアプリが憶えているが、通った道は一つも憶えていない。店の名前ではなく、番地と入口の形で街を憶える癖がついた。休む日を自分で決められる働き方のはずが、決めているのは単価と天気だと、うすうす気づいている。

奈緒という語り手について →

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置き配

「ドアの前でいいです」

インターホン越しに、そう言われる。ほとんどがそれだ。あたしは袋を床に置いて、写真を撮って、階段を下りる。

顔は見ない。そこに顔がない。ドアと、番号と、置ける場所がある。

二年やっている。呼び鈴を押す件数は、月に一件か二件まで減った。押しても、たいてい出ない。出ないことに腹は立たない。あたしも、自分の家のインターホンには出ない。

日曜の夜、アプリが週の集計を出した。二百七十一キロ。

休みを決めていなかった。決めていないと、決めなくていい理由が毎日出てくる。雨だから、乾いてるから、月末だから。

海を見に行くことにした。走っている街に、海はない。川はある。橋は数えられるくらい渡っている。海は、たぶん二年、見ていない。

千葉の宿を出した。一泊、一万四百五十円。東京から特急で一時間五十分。

駅から歩いて二十分と書いてあった。その下に、電話をすれば送迎に行きます、とあった。

歩けばいい、と思った。

わかしお

特急は東京の地下から出た。地下から出る特急に乗るのは初めてで、動き出してから五分、窓が真っ暗だった。

外に出ると、家の屋根が低くなった。蘇我を過ぎたあたりから、線路の左右に畑が増える。

画像はイメージです

一時間五十分。座っている。座っているだけで、進んでいる。ペダルの下の重さがないのが、まだうまく飲み込めない。

自転車で来るなら、六時間はかかると思う。百キロ少し。先週走ったぶんの、三分の一くらいだ。

海が出たのは、大原を過ぎてからだった。窓の下のほうに、灰色の面が広がって、白い線が横に走っている。波だと分かるまで、少しかかった。十一月の海は、思っていたより色が薄い。

安房小湊で降りた。ホームに人は四人。

二十分

駅の前に、タクシーが一台停まっていた。あたしはその横を通って、歩き出した。

道は海のほうへ下っていた。歩道は途中で無くなって、白い線の内側を歩いた。車が来るたび、体が半歩、右に寄る。

寄る癖は、自転車のときと同じだった。歩いていても、体は道の端を憶えている。

十二分で、寺の門が見えた。門の前に、猫がいた。首輪はしていない。あたしを見て、動かなかった。

十八分で、宿の看板が出た。二十分と書いてあったのが、十八分だった。二分早い。二分早く着いても、何も起きない。

帳場で名前を言った。宿の人が、鍵と、湯の時間の紙を出した。

夢湯

湯は上のほうにあった。窓が広くて、外が海だった。

肩まで入って、窓の外を見た。海の面が、湯の面より高いところにある。そう見えるだけだと分かっているが、しばらくそう見えた。

波は同じ間隔で来ない。三つ短くて、次が長い。長いのが来ると、白い線が一本、横に伸びる。あたしは数えようとして、途中で分からなくなった。

分からなくなったまま、湯にいた。

画像はイメージです

上がって、部屋で髪を乾かした。ドライヤーはあった。

窓を開けると、波の音が入ってきた。音は、川より低い。川は上から下へ鳴るが、海は、横から来て、横へ抜ける。

夕食のあと、外へ出た。門の前の猫は、いなかった。街灯が四つあって、二つは点いていなかった。

堤防の上に、人が一人立っていた。こちらに背を向けて、手のひらくらいの大きさのものを持っている。暗くて、それが何かは分からない。あたしは道の側から見ていて、近づかなかった。

お願いします

朝、湯にもう一度入った。海の色は、昨日より濃かった。

帳場に鍵を返した。

「駅までお送りしますよ」

宿の人が言った。あたしは、頼んでいない。

「昨日、歩いて来られましたよね」

見られていた。あたしは、見られない働き方を二年している。人の顔を見ない代わりに、こちらも見られていないのだと、たぶん思っていた。

頼む、というのを、たぶん二年やっていない。置いて、撮って、下りる。頼む相手がいない働き方を、自分で選んだ。

「お願いします」

言ってから、声が思ったより小さかったので、もう一度言った。

車は坂を上がった。歩いて下りた道を、逆に上がっていく。十八分の道は、車だと四分だった。

窓の外に、寺の門が過ぎた。猫はいなかった。運転している人が、この時期は朝がいちばん静かなんですよ、と言った。あたしは、そうですね、と答えた。

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満ちてくる心の宿 吉夢

Overview

千葉県
Region
千葉県鴨川市(外房・小湊)
Access
東京駅からJR特急わかしおで安房小湊駅まで約1時間50分。千葉駅からはJR外房線で約1時間40分。安房小湊駅から宿までは徒歩約20分。駅までの送迎は無料で、電話での事前予約が要る。東京駅八重洲口からJR安房鴨川駅まで高速バスで約2時間20分の経路もある
Price
予約サイトで確かめた一万円台前半〜(1名1室・条件不明) 公開の情報から中価格帯(Reluxの1名1室で一万円台前半〜。プランによって一万円台半ば・一万円台後半・二万円台前半・二万円台半ば と分かれる)

Facility

Room
大人1名・1室の検索で部屋が5件表示される(2名の検索では26件)
Meal
食事の付くプランと付かないプランがある。予約の段階で選ぶ

宿タイプ

  • 温泉旅館
  • 海辺の宿

向いている人間

  • 一人で予約したい人(大人1名・1室の検索で部屋5件・プラン5件が表示される)
  • 1泊を1万円台前半に収めたい一人客
  • 東京から乗り換えなしで海まで出たい人(特急わかしおで約1時間50分)

向いていない人間

  • 駅から荷物を持って20分歩きたくない人(電話で送迎を頼めば無料で来る)
  • 静かな一軒宿を求める人(部屋数の多い宿で、2名の検索では26件の部屋が出る)
  • 到着の時刻を直前まで決められない人(送迎は事前予約)

予約前の注意事項

安房小湊駅から宿までは徒歩約20分。駅までの送迎は無料だが、電話での事前予約が要る。1名で取れるプランは2名のときより少ない(1名5件に対し2名33件)ので、選べる幅は狭くなる。料金と食事条件はプランで分かれるので、予約の段階で確かめること。

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