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一日ぶん
「どうも」と、扉の向こうで声がした。返事をする前に、足音が離れていった。
袋を置いて、写真を撮った。扉と、その前に置いた袋。人は写らない。
家に帰って、その日どこを走ったかを思い出そうとした。出てこなかった。件数は出る。三十七件。金額も出る。距離も出る。街の名前だけが、一つも出ない。
冷蔵庫を開けたまま、しばらく立っていた。閉めて、また開けた。
福岡のときは、三日ぶんの稼働を空けた。初めてのことだった。今回はもう空けない。その日は昼まで走ってから、夕方の便に乗った。空けたのは、戻る一日ぶんだけである。
走ったことのある街を選ぶと、また裏から憶える。走ったことのない街を探した。都城は、地図で見ても、あたしの中に何も無かった。
宿の頁に、米と野菜は自分のところの畑のものだと書いてあった。あたしが運ぶものは、どこで作られたのかも、誰が食べたのかも分からない。
素泊まりで一万二千五百四十円。押すまでに、置き配の写真を撮るより時間がかかった。押してから、飛行機代を距離に換算した。何キロぶんかを出して、それ以上は考えなかった。
正面
宿まで、車で三十分。着いてから、いつもの癖で建物の裏を見た。裏口の位置、自転車を停められそうな場所。給湯の機械が並んでいて、その前に木箱が三つ積んであった。
見てから、正面へ戻った。門と、字の消えかけた看板と、履き替えの下駄が並んでいた。下駄を数えた。十二。数えている途中で、宿の人が横を通った。
会席
膳が来た。米と野菜は、ここの畑のものだという。運ばれた距離は、聞かなかった。
宮崎牛のすき焼きは、二名からだという。ひとりでは頼めない。
隣の卓の男が、膳を写真に撮っていた。一品ずつ、順に。撮り終えてから箸を取った。
畳の縁に、輪ゴムが一本落ちていた。
出された順に食べた。汁が最後まで熱かった。冷めるより先に、食べ終わった。
湯
湯につかった。窓の外は暗くて、何も見えない。
湯が落ちる音と、あふれる音がしていた。落ちるほうが速い。速いほうを、いつのまにか数えていた。
肩まで沈めて、指を湯の面に浮かせた。手が、勝手に何かを握る形になっていた。開いて、また浮かせた。
一足ぶん
翌朝、玄関で宿の人が下駄を並べ直していた。
「昨日、裏のほうまで見ていらっしゃいましたね」と言われた。
見られているとは思っていなかった。すみません、と言った。
「何かお探しでしたか」
探していたわけではない、と言おうとして、言葉が出なかった。自転車を停める場所を見ていた、と言っても、あたしは自転車で来ていない。宿の人は待っていた。待たれているあいだに、下駄の並びが一足ぶんずれているのが目に入って、そちらを見ていた。
「あの木箱、そのうち直します」と宿の人が言った。
名前は聞かれなかった。聞かれないまま、いってらっしゃいませ、と言われた。
車を待つ前に、宿の周りだけ少し歩いた。田んぼと、農園の柵と、犬が一匹。首輪が赤かった。吠えなかった。
数百メートルを、裏口を探さずに歩いた。田んぼの角、柵の切れ目、犬のいたところ。順に出てきた。
宿の正面を、一枚だけ撮った。
空港で、地図のほうのアプリを開いて、都城に印を付けた。
それから仕事のアプリを開いて、明日の枠を朝から入れた。指は、いつもの速さで動いた。
