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一名
「お母さん、最近よく笑いますよ」
施設の人が言った。私は靴を履きながら、笑いますか、と返した。家では笑わない。——でも、いい。笑うなら、いい。
次の面会まで二週間空く。その真ん中に、二泊ぶんの空きがある。母を預けたまま、私が一晩どこかにいても、誰にも何も起きない日。
夜、予約の画面を開いた。人数のところが二名になっている。一に変えた。
消えた。さっきまで並んでいた部屋が、白くなった。
別の宿を開いた。同じことが起きた。三軒目も。二名のときはあれだけあったものが、一に変えるだけで無くなる。無くなるというより、初めから私に向けて置かれていなかったのだと思う。
四軒目で、消えなかった。部屋が十三件、プランが三十四件。二名にすると十二件になる。一のほうが、多い。
プランを上から見ていった。同じ献立のものが、二つずつ並んでいる。会場で食べるものと、部屋へ運んでもらうもの。
同じ会席だった。会場で食べるか、部屋へ運んでもらうか。それだけで、四千円ほど違った。
四千円。母のショートステイの、一日ぶんに近い。
会場のほうを押した。
陸羽東線
新庄で乗り換える。山形新幹線の終点で、そこから在来線に乗ると、車両が二両になった。
二十五分。窓の外に川が出てきて、しばらく並んで走った。十一月の川は水が少なくて、底の石が見えている。
途中の駅で、高校生が四人降りた。降りたあと、車内に私ともう一人だけになった。

携帯を見た。着信はない。見なくても分かっていた。それでも、二十五分のあいだに四回見た。
駅から歩いて七分だと書いてあった。連絡すれば迎えに来てくれるとも書いてあったが、七分なら歩ける。歩いて、坂を下りて、橋を渡った。
橋の上で、いちど止まった。止まる理由はなかった。
会場
夕食の会場に、卓が離して並べてあった。私の卓は端で、壁を背にしていた。
斜め前に、家族連れがいた。四人。年配の女性と、娘らしい人と、その夫と、子供。子供が箸置きを三つ集めて、皿の縁に並べていた。誰も注意しなかった。
年配の女性が、汁椀を先に取った。両手で持って、蓋を膝の上に置いた。
母も、汁を先に飲む。順番が決まっている。三年、同じ順番を見てきた。
私は目を逸らした。逸らした先に、一人で食べている男がいた。品書きを読み終えて、きちんと畳んで、卓の隅に寄せていた。顔は見なかった。
料理は順に来た。名前を覚えようとして、二つ目でやめた。
三品目が来たとき、私は携帯を膝の上に出した。画面は暗いままだった。伏せて、鞄に入れた。鞄はまだ重い。中身は着替えと、財布と、施設の連絡ノートの控えだ。持ってこなくてよかったものを、私は毎回持ってくる。
四品目で、汁が来た。私は汁を先に飲まない。母と同じ順番になるのが嫌で、いつからか、そうしている。
五品目のあいだ、私は一度も時計を見なかった。見なかったことに、六品目で気づいた。気づいたあと、見た。七時四十分。
おいしかった。おいしいと思ったことを、あとで誰にも言わない。それだけのことだった。

部屋に戻ったのは八時前だった。テレビを点けて、消した。
九時十五分
湯から上がって、部屋の窓を開けた。川の音がした。昼より大きい。
布団に入って、携帯を枕元に置いた。音は鳴らないように、していない。鳴ってほしいわけではない。鳴ったときに気づかないことが、三年、いちばん怖かった。
朝、六時に目が覚めた。目覚ましは掛けていない。掛けなくても、この時間に覚める。
新庄への送りは、九時十五分に一本だけある。予約が要る。私はそれに合わせて、朝食を七時に食べた。合わせるのは慣れている。
玄関で、帳場の人に、次の予約はここでもできるかと聞いた。
できます、と言われた。
私は、夕食を部屋へ運んでもらうほうで、日付を先にして取った。四千円のほうを。
ショートステイの一日ぶん、と、もう一度数えた。預けていたころの値段で数えている。数えて、その日で頼んだ。
玄関の椅子で、十分早く待った。誰も来ない十分だった。
車が来た。乗ったのは私だけだった。川がまた窓の横に出てきて、水の少ない底の石が、来たときと同じ向きに並んでいた。
