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十語で止まっている
手帳の後ろから七頁目に、語彙が十個ある。新緑。川音。朝の冷気。灯。持ったまま。一行。顔で覚える。終わり方。計測しない。説明しない。四月から集め始めて、九月末で十個。月に二個のペースだが、実際には七月に四個入って、八月はゼロだった。分布は均等ではない。
このページには「非構造化データ」と名前を付けてある。名前を付けたのは、捨てないためだ。名前のないものは、私は捨てる。分類できないまま手元に置くことを、私は自分に許可していない。非構造化データ、と呼べば、いつか構造化する予定のものになる。予定があるものは、捨てなくていい。論理としては通っている。通っているが、四月から一度も構造化していない。
十語で止まっているのは、たぶん、集める対象が減ったからではない。私が、集めることに慣れたからだ。慣れると、引っかからなくなる。引っかからないものは、記録されない。
九月の第四週、由布院に宿を取った。大正十年創業。約一万坪の敷地に、離れが十一室。本館の洋室が六室。合わせて十七室。数字は把握した。把握したうえで、私は、把握して何になるのかを考えなかった。
二十五分
由布院駅から、宿までは徒歩で二十五分と書いてあった。タクシーなら五分。送迎もある。私は歩いた。歩いた理由を、私は説明できる。座っている時間が長かったから、体を動かしたかった。所要時間の差は二十分で、その二十分に他の予定はない。合理的だ。説明できるということは、たぶん、説明が要るということだ。
道は、途中から観光の通りになった。土産物の店が並んでいて、平日の午後でも人がいた。人の流れの中を歩きながら、私は歩幅を数えかけた。数えかけて、やめた。やめたことを、手帳に書くべきかどうか、考えた。書かなかった。書くと、それも記録になる。
一万坪
門を入ると、音が変わった。正確には、音が減ったのではない。通りの音がここまで届いていないだけで、別の音がある。木の葉と、どこかの水と、遠くの鳥。一万坪という数字を、私は面積として理解していた。理解していたが、歩くと、面積は距離になる。
離れが十一室あるという。建物が、木立のあいだに、離れて建っている。隣の建物が見えない位置に配置されている。設計者が意図的にそうしたのだろう。私はその意図を、変数として書き出せる。視線の抜けを遮る植栽の配置。建物の向きの角度。動線の交差の回避。書き出せるが、書き出したところで、この静けさは再現できない。再現できないものを、私はどう扱えばいいのか。
湖の霧
夕方、金鱗湖のほうへ出た。湖から霧が出ていた。水温と気温の差だと知っている。知っているが、知識は霧の見え方を変えなかった。

湖の縁に、若い女がひとり立っていた。スマートフォンを構えて、しばらくそのままだった。撮っていなかった。構えたまま、撮らずに、下ろした。それから、また構えた。今度は撮った。一枚撮って、画面を確認して、消したように見えた。指の動きがそうだった。
私はその一連を見ていた。見ていて、手帳を出しかけた。出しかけて、止めた。彼女がやっていたことに、名前が付けられなかった。撮る、でも、撮らない、でもない。分類できない。
離れの膳
夕食は部屋に運ばれてきた。離れは部屋食だと聞いていた。本館の洋室はレストランになるという。部屋のタイプで、食べる場所が変わる。私は離れを取っていた。取ったときの理由は、価格差の妥当性を検討した結果だったはずだ。はずだ、というのは、そのときの判定基準を思い出せないという意味である。
膳が置かれて、給仕の方が下がった。ひとりで食べた。由紀と最後に外で食事をしたのは、いつだったか。思い出そうとして、日付が出てこなかった。日付は記録してある。記録は残っている。開けば分かる。開かなかった。
彼女は、食べるのが遅かった。私が食べ終わってから、まだ半分残っていた。待っているあいだ、私は仕事の連絡を返していた。返せる、と思っていた。実際、返せた。その時間の使い方を、私は最適化と呼んでいた。いまは、待つ時間しかない。待つ相手が、いない。
十一語目
湯は源泉のかけ流しだと聞いた。単純温泉。大浴場が二つ、露天が三つある。露天のひとつに入った。夜で、木の影しか見えなかった。湯の中で、昼間の女の指の動きを思い出した。撮って、確認して、消す。あの動作の意味を、私は特定できない。良かったから消したのかもしれない。良くなかったから消したのかもしれない。両方あり得る。あり得る、というのは、決定不能ということだ。決定不能な事象は、私の仕事では保留に回す。保留のフォルダに入れて、判断材料が揃うのを待つ。判断材料は、揃わない。

部屋に戻って、手帳を開いた。後ろから七頁目。十語のあとに、一行空けて、書いた。撮って、消す。書いてから、これは語彙ではないと思った。動作である。分類が違う。分類が違うものを、同じページに書いた。分類できないものを、私は十一個持っている。
消さなかった
朝、霧が出ていた。昨日の湖の霧より濃い。敷地の木立のあいだに溜まって、建物の下の部分だけを隠していた。朝食を済ませて、十一時に出た。帰りは送迎を頼まず、歩いた。来たときと同じ道で、同じ土産物の通りを抜けた。朝の店は、まだ開いていないところが多かった。
駅で、手帳を出した。十一語目のページを見た。「非構造化データ」というフォルダ名を、消そうかと思った。消せば、これはただの語彙のページになる。予定のないもの、いつか構造化する見込みのないもの。捨てる理由が立つ。ペンを当てた。当てたまま、しばらくいた。消さなかった。
名前は付いたまま、中身は分類できないまま。どちらも、そのままにした。手帳を閉じて、鞄に戻した。改札の向こうで、霧が、まだ残っていた。
