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お姉さん
施設から電話があった。母が今日もまた、職員を「お姉さん」と呼んでいた、という報告だった。悪い知らせではない。ただの経過報告。それでも切った後、しばらく携帯を握ったままでいた。
鳥越の宿から帰って、五か月が経った。面会は週に一度のまま変わっていない。増やそうと三度考えて、三度とも増やしていない。理由は、シフト。理由は、書類。理由は——理由はいくつもあるが、どれも本当の理由ではない気がする。
前に一度、佐賀の宿に一泊した後、手帳に自分の予定を書くと決めた。決めたはずの欄は、今月も母の通院と、施設への書類提出で埋まっている。私の予定は、また消えた。消した覚えはないのに、消えている。
渓流沿いの一軒宿の記事を見た。全室が離れになっているという。離れ、という言葉に、少し惹かれた。
のぞみ、リレー、かもめ
東京駅からのぞみに乗る。博多で在来線特急リレーかもめに乗り換える。さらに武雄温泉で、対面のホームを渡ってかもめに乗り換える。乗り換えが三回。乗り換えるたびに、携帯の着信を確認する癖が出る。施設からは、何も来ていない。
西九州新幹線は短い区間しか走らない。乗ってすぐ着く感覚だった。乗り換えの多さに疲れる暇もなかった。

椎葉山荘
嬉野温泉駅から車で十五分、山あいに入っていく。渓流の音が、車を降りた時点でもう聞こえていた。
離れの部屋に案内された。窓の外を、椎葉川が流れている。せせらぎ、というのだと思う。言葉にすればそれだけだが、聞いているとなぜか、施設の廊下の物音より静かに感じた。

廊下で、腕時計を見ている男とすれ違った。急いでいる様子ではなかった。時刻を確認して、また歩き出しただけだった。着信を待つように携帯を見る自分とは、見方が違う気がした。手には使い込まれた手帳があった。何かを控えているようだった。
椎葉会席
夕食は部屋に運ばれた。地元の食材を使った会席だという。品数が多く、一つ一つに時間がかかった。急かされない食事は、久しぶりだった。
食べながら、携帯を見た回数を数えていないことに気づいた。数えていない、ということに気づいた時点で、また一回見た。それでも、いつもより少なかった。
私、とだけ
朝、渓流の音で目が覚めた。夜より水が澄んで見えた。光の加減だと思う。
十一時前に発って、駅まで送ってもらった。西九州新幹線から在来線特急、新幹線と乗り継いで、東京へ戻った。
車内で手帳を開いた。来月の欄に、何か書こうとして、「予定」と書きかけてやめた。予定、と書くと消しやすい。母の通院、施設の書類、それらと同じ枠に見えてしまう。
代わりに、自分の名前だけを書いた。美咲、とだけ。何をするかは、まだ決めていない。決めていないことが、今回は不安ではなかった。
