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一つ
署名を三行にしてから、四か月になる。
誰にも何も言われないまま三か月が過ぎ、四か月目に一度だけ言われた。それきりである。名前の下の一行は、空けたままにしてある。
空けた一行を、わたしは毎回見る。見て、埋めない。
五月の入口に、鬼怒川の宿を開いた。
一名にした。部屋が二つ、プランが一つ。
二名にした。部屋は十七、プランは四つになった。
プランが一つというのは、選ぶところが無いということである。
部屋が二つあって、プランは一つである。部屋を選べて、食事を選べない。
一つしかないものを、わたしは取った。
安心
取ってから、自分が少し安心したことに気づいた。

選ぶ余地がないことに、わたしは安心した。
仕事では毎日選んでいる。書体を選び、字送りを選び、色を選ぶ。選んだものには理由を付けて説明する。説明できない選択は、通らない。
一つしかないものには、理由が要らない。
安心したことを、あとになって少し嫌に思った。嫌に思ったが、取り消しはしなかった。
八分
東武の浅草から特急で二時間。鬼怒川温泉の駅で降りた。
駅からバスが出ている。八分、三百円。

五月の入口の川は水が多い。橋の上から見ると、流れの速いところと遅いところが色で分かれている。
宿は大きかった。館が三つあって、渡り廊下でつながっている。わたしが入ったのは、そのうちの一つである。どれを割り当てられたのかは、鍵をもらうまで分からなかった。
朝
夕食は付いていない。一名で出たプランは、朝食が付くものだけだった。
外へ出て、駅のほうへ戻って食べた。店は開いていた。何を食べたかは書かない。

湯は広い。夜の湯は人が少なくて、湯面が静かだった。
離れたところに男が一人いた。湯から上がって、体を拭かずに窓のほうへ行った。外を見て、戻ってきて、それから拭いた。拭くのを後にする理由が何かあるのだろうが、見ていても分からなかった。
朝食は広間で、選んで取る形だった。取るものを選ぶのに、わたしは少し時間をかけた。昨日は選ばずに済んだので、その反動かもしれない。
相見積もり
東京に戻って、月曜に見積もりを出した。
同じ仕事を三社で比べる、と先方から聞いていた。相見積もりである。前は、こういうとき少し下げた額を書いた。下げると通りやすい。通れば仕事になる。
今回も下げた。いちばん安い額をそのまま出した。
出してから、これは選ばせないための額だと思った。三社を比べる相手に、比べる手間を省かせている。
一つしかなければ、選ばれる。
わたしは何も変えていない。仕事の受け方も、断り方も、去年と同じである。ただ、額の決め方が、少し前より速くなった。
速くなったぶん、考えていない。
署名は三行のままにしてある。名前の下の一行も、空けたままにしてある。
