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渓谷
娘に渡した時刻表は、まだ返ってこない。六月に渡して、晩夏になった。返してくれとは書かない。
八月に、娘の家へ寄った。時刻表は、居間の棚の上に、渡したときのままの向きで置いてあった。持って帰るとは言わなかった。
手元にあるのは三年前の号である。赤い線を引いた便が二本あって、どちらも、いまは走っていない。その頁だけ紙が薄い。
薄くなった頁を繰るのをやめて、まだ一度も繰っていない頁を探した。四国の、読めない地名のところで手が止まった。大歩危。読み方を調べてから、宿を決めた。
駅からは、車で十分ほどだった。窓の外に、川が両側を岩に挟まれて流れているのが見えた。深いところは、緑色をしていた。
部屋に露天風呂がついていた。湯につかりながら、対岸の岩を見た。
湯の中で指を折りはじめて、三本目でほどいた。手のひらを湯につけたまま、対岸を見ていた。
遊覧船
翌朝、遊覧船の時刻を見た。
帳場で、次の便には車を出せば間に合います、と言われた。鍵はもう手に持っていた。
急ぎませんので、と答えた。ではその次の便で、と言われて、その次でなくてもいいのだが、と思ったが、では何のために四十分待つのかを、口にする言い方が出てこない。宿の人は、車の鍵を持った手を下ろさない。
歩いてまいります、と言った。

四十分を、船着き場の縁に腰かけて過ごした。水は、上から見るより速い。岩の際で一度戻ってから、また下っていく。
手帳を出して、番号の頁を繰った。宿の名と三桁が並んでいる。そのあいだの一枚は、まだ空いている。同期の名を書く場所ではないと、前から思っていた。では別の頁かというと、それも違う気がしていた。
船を待つ列の後ろで、男が一人、乗船券の半券の裏に何か書いていた。私は自分の半券を見た。
船に乗った。船頭が、岩の名前を一つずつ教えてくれた。名前のある岩と、無い岩があった。
頁
宿に戻って、手帳を開いた。空いた一枚を、もう一度見た。

万年筆の先を頁に置いた。置いたところに、インクが少し溜まった。大歩危、と書いた。三文字で、頁の上の三分の一が埋まった。
帰り
夕食は、地元の川魚が出た。骨が細い。外した骨を皿の端へ寄せて、頭のほうから順に並べた。
駅で、三年前の号を開いた。載っている便は、今日は動いていた。読んだとおりの便に乗った。
東京駅の売店で、最新の号を買った。娘のところにあるぶんは、そのままでいい。家には二冊あることになる。
