宿と小説の読みもの、余白
RECORD № 121

いい言葉に線

仕事を機械に明け渡したあと、何が自分に残るか

長く雑誌の編集をしていた。その仕事の大半は、いま機械がやっている。フリーの校正者になって、ゲラの角を撫でて直す癖だけが手に残った。編集者だった自分との距離を、まだ測りかねている。

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初校

受けると返事をした一冊の、初校が来た。

四百五十枚あった。段ボールではなく、宅配の袋で届いた。袋のまま机に置いて、開けるまでに二日かかった。

開けた。紙は思ったより白い。級数は本文十三級で、行間は広めに取ってある。読みやすくしてある、というより、読ませようとしてある組み方だった。

単価は、いままでの仕事の半分に近い。半分に近いので、いままでの仕事も、そのまま続けている。

続けている、というのは、減らせていない、ということだ。

機械が通したものに人の目で追記を足す仕事は、今月も十件を超えた。そちらは速い。速いので、量が入る。量が入るので、時間が減る。減った時間で、四百五十枚を読む。

三週目に、私は一泊することにした。

条件は二つだった。近いこと。安いこと。

以前、締切と締切のあいだの平日に、箱根の山の上まで登ったことがある。ケーブルカーを乗り継いで、値段も相応だった。あのときは、遠さそのものを買っていたのだと思う。

今回は、遠さを買う余裕がない。

五分

新宿から中央本線で、一時間半ほど。石和温泉という駅で降りた。

駅から歩いて五分と書いてあった。歩いた。五分だった。

画像はイメージです

二月の甲府盆地は、山が近い。畑は桃の木で、まだ枝だけである。枝の切り方が、どの畑もよく似ている。誰かが決めた形があって、それに揃えているのだと分かる。

宿は大きかった。玄関に人が多い。団体の札が二つ立っていた。

一名で取れる部屋は、一つしか出なかった。二名なら十ある。私は出た一つを取ったので、部屋を選んでいない。

太鼓

夕方、館内の掲示を読んだ。

毎晩、従業員による太鼓の会があると書いてある。時刻と場所が添えてあった。

静けさを求めて来たのではない。今回の条件は、近いことだった。だから、賑やかでも文句はない。文句はないが、私はそれを読んで、少し身構えた。

湯は広かった。人が多い。話し声が反響して、言葉としては聞き取れない。聞き取れない声は、私にはむしろ楽だった。誤植が目に飛び込むのと同じで、聞き取れる言葉は、勝手に直しにかかってしまう。

画像はイメージです

太鼓の会は、広間であった。私は端で立って見ていた。

打っているのは若い人が二人と、年配の人が一人だった。年配の人の手が、ほかの二人より小さく動く。動きが小さいのに、音は同じ大きさで出る。

見物の客のなかに、男が一人いた。手を叩かない。腕を組むでもなく、両手を下げたまま、打っている人の手のあたりを見ていた。終わっても、しばらく動かなかった。

一枚

部屋に戻って、鞄からゲラを出した。

一枚だけ持ってきていた。四百五十枚のうちの、二百十二枚目である。二百十二枚目を選んだ理由は、その日いちばん長く止まった頁だったからだ。

止まった理由は、誤字ではない。誤字はなかった。

三行目の終わりに、ひとつ言葉があった。私はその言葉を、これまで読んだことがない使い方で読んだ。作者はたぶん、意図してそう置いている。置いてあることに、私は昼のうちに気づいて、そこで止まった。

赤鉛筆を出した。

赤は、間違っているところに入る。間違っていないところに引いた線は、赤ではない。三十年近く、私はそう扱ってきた。

その言葉の下に、線を引いた。

短い線である。校正記号は付けなかった。付ける記号がない。

戻る

朝、湯にもう一度入った。人は少なかった。

十時に発って、駅まで五分歩いて、中央本線に乗った。行きと同じ席の側に座った。桃の枝が、逆の順に流れていく。

東京に着いて、その日のうちに、機械の追記の仕事を二件受けた。断らなかった。減らせていない。

ゲラの二百十二枚目は、束に戻していない。机の端に置いてある。

線を引いた箇所を、私は編集の人に伝えるつもりがない。伝えると、直す話になる。直すところではない。

置いてあるだけの一枚が、机の端で、少し反ってきた。

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Field Notes

華やぎの章 慶山

Overview

山梨県
Region
山梨県笛吹市石和町(石和温泉)
Access
JR中央本線の石和温泉駅から徒歩5分。送迎もあり要予約。車は中央自動車道・一宮御坂ICから10分、駐車場は無料
Price
予約サイトで確かめた一万円台前半〜(1名1室・条件不明) 公開の情報から中価格帯(Reluxの1名1室で一万円台前半〜。もう一つのプランは二万円台前半)

Facility

Room
大人1名・1室の検索で表示される部屋は1件だけ(2名の検索では10件)。プランは1名2件・2名12件
Meal
食事の付くプランがある。予約の段階で選ぶ

宿タイプ

  • 温泉旅館
  • 温泉街の宿

向いている人間

  • 一人で予約したい人(1名でも部屋とプランが表示される)
  • 1泊を1万円台前半に収めたい一人客
  • 駅から歩いて着ける宿を選びたい人(徒歩5分)

向いていない人間

  • 部屋を選びたい一人客(1名で表示される部屋は1件のみ。2名なら10件)
  • 静かな一軒宿を求める人(規模が大きく、温泉街の中にある)
  • 食事や部屋の組み合わせを比べたい人(1名で出るプランは2件)

予約前の注意事項

大人1名・1室で表示される部屋は1件、プランは2件だけ(2名なら部屋10件・プラン12件)。その1件が埋まっていれば、その日は一人で取れない。石和温泉駅から徒歩5分だが、規模の大きい宿で温泉街の中にあるため、静けさを求める向きではない。料金と食事条件はプランで分かれるので、予約の段階で確かめること。

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